私は一生誰かの人生の脇役なんだと思う。

 

 あれは幼稚園だったか、将来の夢を尋ねられたとき私は女優になりたいと答えた。周りの大人たちは皆笑っていた。その当時の私にはなぜ自分が笑われているのか全く見当がつかなかった。しかしこの世に生み落とされて、十六年経つ今なら、私も彼らと一緒になって笑うのだろう。

 

 そもそも私が夢みる乙女から今のようないわゆる卑屈で陰気な性格に変わっていってしまったのは、親の転勤による引っ越しが大きいと勝手に思っている。初めての引っ越しは小学校一年生の終わり頃。年末に父親が大事な話があると言って帰って来て、勿体ぶりながら家族に打ち明けた時の顔は今でも忘れない。驚きは大きかったが、なにしろ幼すぎてその地や友達にとりわけ強い思い入れもなく、思いのほか悲しくなかったことを覚えている。最後の日に家を去る時、見送りに来てくれた友達をみて涙を流す姉を不思議そうに眺めたほどである。しかし、それとは別に心配事は意外にもたくさんあった。まずは、東京という日本の中心である都会から県名を言われた相手、十人中六人が携帯を取り出し日本地図を検索するような田舎に引っ越さなければならないこと。新たな地で新たな友達を作ること。その地に順応していけるのか、若干七歳ながらも真剣に考えていたつもりだった。結論から言ってしまえば、悩んでいたあの頃はなんだったのかというほど、友達はたくさん出来、慣れるかどうかの不安も時間が解決していった。そうしているうちにまた父親のあの勿体ぶった顔と共に二回目の引っ越しが告げられた。一回目の時とは違い、物心ついてからの三年間というは、短いようで相当濃く、その人間の人格形成に大きく関わってくる。思い出の数々がこみ上げてきて、そのとき初めて本当の悲しさを体験した。小学五年生になる春、私は再び東京に戻ってきた。

 夜中に家を出発して、いつの間に寝てしまったのか、目を覚ますと車内に朝日が差し込んでいた。高速道路をひたすら走る車の中で、久しぶりに目にする誰もが他人に無関心で干渉することはない、都会の街並み。淡々と立ち並ぶ高層ビルに反射する光。

 

 私はこんなにも美しいものを生まれて初めてみた。

 

 東京に戻ると言われたとき、当たり前のように前と同じ家、同じ小学校に通うのだとばかり思っていたが、現実は全く別の区に引っ越すとのことだった。このときも一度目の引っ越しと同じように不安は募るばかりだった。私のこの性格を全てこれらの引っ越しのせいにしていいかと言われれば、そうではないのかもしれない。そう、これは私の単なる言い訳に過ぎないからだ。きっと幼い頃に引っ越しを経験した子どもがみんなこんなになってしまうわけではない。もともとの性格も勿論関係する。皆さんお察しの通り私はいわゆる内気な性格だった。明るくポジティブな子に何度憧れ、私もそんな風になりたいと強く願ったことか。こういうタイプは変化に弱い。引っ越しという大波は私をどんどん厚く硬い殻に閉じ込めていった。気づけば小学校を卒業し、中学生となった私は、本当の自分と、用意された、他人に対する別の自分のようなものを完全に隔離させて持っていたのだと思う。

 ここまで聞いてきて、あなたは私を何かの話の主役と捉えることができるだろうか。人の顔色を伺い、波長を合わせ、誰とでも分け隔てなく接することが出来るようになったのは事実だ。だが、そんな人間はいつまでたっても、学園ものの漫画で言うところの役名はおろか、顔まで曖昧に描かれる、モブのクラスメイトJあたりだろう。勉強も運動も中途半端で、結局高校受験も自分の偏差値で行ける、それなりの学校に進学した。高校デビューという言葉を聞いたことがあるだろうか。中学時代までの自分から一新して高校から新しい自分でやっていくこと。だいたい地味めな子がギャルになるとか、まあそんなことだ。今考えると私ももう少し勇気を出して自分のキャラを作り込んで高校デビューをしてクラスの一軍あたりに入り込めていたら、もっと状況は変わっていたのかもしれない。ただ私はそこまでの勇気を出す術を生憎持ち合わせてはいなかった。中学と全く同じ生活がまた繰り返されていくんだと覚悟した。異なる点は数少ない仲の良かった友達すらいないこと。知っている人が一人もいないこの状況には、意外にももう慣れっこだった。また同じようにそれなりに友達が出来、ただなにを為すためでもなく学校に通い授業を受ける毎日。長々と聞いていただいたが、ざっとこんな感じで今に至る。



 中学生の頃、高校を卒業したら海外に留学しようと思って、高校三年間でバイトをしていくら貯めようとか、本気で考えて計算したことがある。結論から言えばあまりに現実的でなさすぎて、その計画は断念したのだが。それでもバイトの夢が捨てきれず、部活にも入らず、バイト探しに明け暮れ夏からレストランで働き始めた。この出来事が私に大きな影響を与えることになる。それまで学校と家の行き来を繰り返し、周りに無関心に生きていた生活に仕事という新しい風が吹き込んできたこと。「アルバイトなんて、仕事とはいえない。」「そんなんで働くことをわかったつもりになるな。」と思う方もいるかもしれない。いや、いて当然だと思う。ただ私が言いたいのは、仕事とはなんたるかということではない。ここで得た経験がどれだけ私を成長させてくれたかということだ。なんといっても、人との出会いという貴重な機会をもらった。学校に通うだけでは決して出会うことのなかったであろう人生の先輩たち。自分と違う年代の人と話すだけでも自分が考える以上に世界は広がる。

 ところで、この店は、レストランとは言っても店の厨房で作った洋惣菜をパックに詰めて売るというスタイルであった。イートインスペースもあるので、そこで食べていくことも出来るのだが、席もそこまで多くはなく、普通のレストランのように忙しくはなかった。

 正直この店の面接にきたとき、どうせ受からないだろうと高を括っていた。それもそのはず、バイトの面接自体はそれで五店目だったのだ。そんなことになってしまった一番の原因は私のこだわりがあまりにも強かったことだ。バイトだからといってコンビニやスーパーで妥協することは絶対にしたくなかった。そうなると数少ない個人経営の小洒落た店を探し出すしかない。不採用の理由は様々だったが、大体は求人サイトに高校生可と書いてあっても受験の終わった十八歳以上でなければならなかったり。だったら最初から高校生可などと書かないで欲しい。あとは、店を一目みて雰囲気が合わないと思い、自ら条件を悪く言ったりしてわざと断らせたりした。そんなこともあって今回もどうせ無理だろうとダメ元で書き慣れた履歴書を持って訪れた。こんなことではいつまでたってもバイト先など見つからないのではないかと不安を抱きつつあり、入学してからすぐ始めたバイト探しは三か月も難航していた。

 面接をしてくれたのは、顔の整った、人の良さそうな鈴木さんという青年だった。このレストランの店長は別にいるのだが、ほぼ店にいないので、鈴木さんはほとんどその立ち位置にいる人であった。とてもフレンドリーに話す鈴木さんと対面しながらもう話すこともないのだろうなと思っていたとき。

 「じゃあ採用ってことで。」鈴木さんはそう言った。

 「はい?」あまりにも急に言われ自分の耳に自信が持てなかった。

 「なにも問題無さそうだし、採用するつもりなんだけど。この時期だともうすぐテストかな?」鈴木さんは笑顔で続けた。

 「あ、はい。七月の初めに期末考査が。」動揺しながらも反射的に答える。

 「じゃあ初出勤は夏休み前になるかな。また詳しい日時が決まったら連絡するから。」そう言われ、その場で連絡先を交換し、私が思いもよらないほどスムーズに鈴木さんのペースに乗せられてしまった。面接が終わり、動揺と歓喜とが混ざり合いながらも席を立った。

「じゃあこれからよろしくね。」

 「はい。よろしくお願いします。」最後に深めにお辞儀をして、店を後にした。これからあの店で働くのかと、最寄りの駅までの道を歩いていると後ろからタッタと足音がした。なにかと思い後ろを振り返るとそこにいたのは鈴木さんだった。



 その時、私は包み込まれるような柔らかい風に吹かれた気がした。



 「待って。」鈴木さんが走って私に駆け寄ってくる。なにか忘れ物でもしてしまったかと不思議に思いながらも、私の方からも鈴木さんに歩み寄った。不思議そうに見つめる私を見ながら鈴木さんは手に持っていたものを見せてきた。その手に持っていたのは店名の書かれたビニール袋だった。鈴木さんは袋を広げながら続けて言った。

 「これ、店で出してるパンなんだけど、よかったら食べて。早くうちの味に慣れてほしいし。ね?」そう言って袋を私に差し出した。

 「ありがとうございます。いただきます。」キラキラとした笑顔に圧倒されつつも袋を受け取り、小さく微笑むと、「では」と小さく会釈をし、駅に向かった。帰り道、理由のわからない笑みが込み上げてきたのを今も覚えている。

 バイトは週に三日で、平日二日と土曜日に入っていた。平日は学校が終わって夕方から閉めまでほぼ鈴木さんと二人だった。夕方は大して混まないので暇だった。店に二人きりとなるといやでも話す機会ができてしまう。仕事を教わりながらも、バイトを始めて半年が経つ頃にはお互いにいろんな話をしてずいぶんと仲が良くなっていた。ずっと苗字で林さんと呼ばれていたのだが、それが堅苦しいからやめようということになった。

「鏡花だからきょうきょうとかどう?」キラキラと目を輝かせながらそう提案してくる鈴木さんにいいですよとしか言えず。それからバイト先ではみんな私をそう呼ぶようになった。性格に似合わないアイドルみたいなあだ名だが、みんなとの距離が近くなったような気がしてなんだか嬉しかった。鈴木さんは昔から音楽をしていたらしい。私は楽器がほとんど出来ないし、小中のリコーダーなんか嫌いすぎていつも破壊したくなる衝動と葛藤していたくらいだった。鈴木さんは、高校を卒業してすぐ進学せずに働き出したらしい。地方から出てきたようで、自分がやりたいことも分からず、高い金を払って大学で遊んで四年間を無駄にするくらいなら就職して少しでもお金を貯めようと思ったと話していた。東京の高校はほとんどの人が大学に進学する。専門学校に行く人も少なく、就職なんて言ったらとたんに異端児扱いだ。私も東京のそのいやな考えに染まっていたようで、初めてその話を聞いたときは少し驚いた。でも鈴木さんの丁寧な働きぶりを見ているうちに世間一般に囚われていた自分を憎んだ。ただ最近は鈴木さんの様子がいつもと違う。ある日のバイトで、一通り締めの作業が終わり、帰り支度をしていたとき。

 「…チッ。…小木のやつ…」そう聞こえた。そのとき、そう小さく溢した鈴木さんの言葉を私は聞いてしまってよかったのか。若干十六歳の小娘なんかが相談にのりますなんて言ったところで何になるのか。心ではそう考えながらも、口はもうすでに動いていた。

 「何かあったんですか?」無意識にそう言うと、鈴木さんがまっすぐにこちらを見つめていた。少しの間何かを考えている様子で鈴木さんは口を開いた。

 「ごめん。びっくりさせちゃった?ごめんね。」やはり小娘なんかに相談なんかしてくれないかと思っていたときにはまたも無意識に言葉が出てしまっていた。

 「私じゃ全く役に立たないかもしれませんが、お話を聞くくらいなら出来ます。愚痴でもなんでも話してください。」いい終わってから少し後悔した。急に踏み込みすぎたのではないかと。しかしそんな不安もすぐに吹き飛んだ。鈴木さんが笑いながらこう言ったからである。

 「JKにそんな心配されちゃうなんて情け無いね。でも今日は聞いてもらいたいかも。」そう言うと鈴木さんは語り始めた。小木というのはこのレストランの店長で、店にも来なければ、全くと言っていいほど仕事をしないそうなのである。ほとんどの仕事を鈴木さんが代わりに行っているにもかかわらず昇給などは全くなく、不満が募っていたらしい。

 「辞めようかなとも思ってるんだよね。」そこで初めて私は鈴木さんの本音を聞いた。

 「え。」何に対する驚きだったのかははっきりしない。自分の中で鈴木さんに抱き始めていた気持ちが急に行き場を失うような感覚がした。

 しかし、鈴木さんの顔は笑いながらも、真剣だった。

 それからはバイトがある日は毎回店に残って話すようになった。それまでバイト中に話していたことよりもだいぶ踏み込んだ話もたくさんして、ときにはウチのレストランの灯り以外全部消えてしまっているくらいに話し込んでいたこともあった。

 「次言って何にもしてくれなかったら辞めようと思ってる。」ある日、鈴木さんがそう切り出した。初めて二人で残って話したときからその話もよくしていただけにどれだけ鈴木さんが思いつめているのかも少しは理解しているつもりだった。私としてはもちろん辞めて欲しくなんてなかった。しかし、鈴木さんの顔を見ればそれが軽い気持ちで言っているわけではないことは明らかだった。

 辞めるという話が出るたびに私はなんとか辞めさせないようにできないかといろんな言葉をかけていた。しかし、この日はその言葉ももう口から出なくなっていた。

 「鈴木さんがそこまで考えて出した答えなら、もう私に口を出すことはできません。今まで伝えてきたのが、私の言いたいこと全てです。」結果的に私は背中を押すような言葉をかけてしまった。しかし後悔はしていなかった。

 「ありがとう。」微笑みながらそう返す鈴木さんの顔を見て自分の気持ちを確信した。胸の奥でストンと何かが落ちる感覚がした。

 

 ああ、私多分この人のこと好きなんだ。

 

 その一週間後、鈴木さんが辞めることが決まった。

 店長は優秀な人材がいなくなるとしても、結局何もしなかったらしい。

 「きょうきょう。今日はさ、この後ご飯行かない?」鈴木さんと入るバイト最後の日、締めの作業が終わると鈴木さんはそう言った。