真夜中、フリーデはふと目覚めた。
――ギュスターブ様は?
そこにいるべき、ギュスターブの姿はなかった。
時刻は深夜二時。屋敷は、しん、と静まり返る。
――お手洗いかしら。
フリーデは体を起こすと、彼がいたであろう場所に手で撫でる。
「えっ」
びっくりしたように引っ込めた。そこは冷たかった。
――どうして?
寝台を抜け出したのなら、温もりはあっていいはずなのに。
これではまるで、最初からいなかったようではないか。
たしかにギュスターブは一緒に眠っていたはず。
胸騒ぎのようなものを覚えたフリーデは上掛けを羽織って部屋を出た。
「っ!」
びくっと小さく肩を跳ねさせる。
――な、なんで!?
そこにはギュスターブが剣を抱えるようにして蹲っている。
――こんなところで、眠って……?
「どうした?」
「ひゃ」
ギュスターブが目を開け、顔を上げた。
朝焼けの空を思わせる深紅の瞳に、フリーデの姿がうつりこむ。
「お、起きていたいのですか」
「扉を開ける音で目が覚めた」
「お、音って……」
音らしい音などたてたつもりはない。ただ僅かに蝶番が軋んだ程度の、僅かなものでしなかったはず。
「そんなことより、こんなところで何をしていたのですか?」
「眠っていた」
「眠ってって……。どうしてベッドではなくて…………いつも、そうしていたのですか?」
「俺とは眠りたくないだろう。いや、これではお前に非があるようだな。俺にはまだ一緒に眠る資格がない、そう思っただけだ」
「資格……」
フリーデは溜息をついた。
「それで廊下で? 自分の部屋で眠ればいいでしょう。こんなところで眠るなんて風邪を引いてしまいます」
「これくらいどうということもない。野営には馴れている。それにここは屋内だ。これでいちいち風邪を引いていたら騎士は務まらない」
ギュスターブは何を言っているんだという顔で、フリーデを見つめてくる。
彼ら武人の生態というのは理解できない。
「それに、部屋で寝ろなんて酷なことを言うな」
「どこが酷なんですか……」
「もし緊急事態が起きればどうする? 誰かがお前たちを守らないといけない」
「でも屋敷は団員のみなさんが夜通し警備を……」
「俺には何も守らせてくれないのか? 離縁していない以上、俺がお前の夫であることに変わりはない。――もういいだろ。用事がないのなら部屋に」
「……いいえ。私からお話がありますので、せっかくなので今からしようとかと思います」
フリーデは、ギュスターブと向かい会うように床に座った。
絨毯ごしとはいえ、冷たさがお尻に伝るせいで、ぶるっと震えてしまう。
「……これを下に敷け」
ギュスターブは自分がまとっていた外套を差し出してくる。
「それはあなたの……」
「いいから」
「……ではありがたく借ります」
フリーデは行儀が悪いと思いつつ外套をお尻に敷かせてもらう。それまでギュスターブがずっと身にまとっていたせいか、温もりがあった。
「それで、話とは?」
「記録を読みました」
ギュスターブの目が、不思議そうにこちらを窺う。
「財務記録です。あなたが領地戦に出征し、領地の収入の不足分を補っていてくださったんですね……。それだけでなく、私が服飾に使っていたお金も含め、ギュスターブ様や騎士団の皆さんが命のやりとりをして得たお金で……」
そのことを知った時の恥ずかしさは何と言っていいか分からなかった。
自分に感心を払わない夫への恨みつらみを抱えながら、フリーデこそ領地の財政に関して全く無知で、自分が使うお金がどこからきているのか考えもしなかった。
あまつさえ、その服飾品を実家に言われるがまま送っていた。
過去の愚かで無思慮だった自分を叱りつけたい。
「気に病むことはない。使う為に稼いだんだ」
「気に病みます。それだけの愚かな真似をしてきたのですから……」
「愚かじゃない」
「いいえ、愚かです。子どもとはいえ仮にも私は、伯爵夫人だったのに」
その時、不意にギュスターブが体を起こし、そしてフリーデの右手を優しく両手で包み込んだ。
その眼差しには真摯な光が浮かび、じっとフリーデのことを見つめる。
威圧感はなかった。むしろその瞳に映った光は普段よりもずっと柔らかく、引き込まれるようだった。
鼓動が早くなり、体が熱を帯びる。
「そんなことを考えないでくれ、フリーデ。お前は、公爵家やもしかしたら皇室にさえ嫁ぐことのできる侯爵家の令嬢だ。それを俺が、身分不相応であることを承知の上で、皇帝陛下に願い出て、妻として迎えた。俺には、お前に一切の不自由をさせない責任があるんだよ」
「ギュスターブ様……」
「どれほどの贅沢をしようとも構わない。欲しいものは買ってくれ。それさえ遠慮されたら、俺は一体、お前に何を与えられる?」
ギュスターブはかすかに声を震わせ、両手で包み込んだフリーデの手の甲に額を押し当ててくる。
こんな彼の姿を初めて見る。ギュスターブはそんな悲壮な決意で常に戦場に出ていたのか。戦争が好きでも、血に酔うわけでもなく。ただ身分不相応な結婚で迎えた幼妻のためにその命を削っていたなんて。
「……あなたが命をかけて私のために動いてくれていたのに、私は拗ねて屋敷に籠もっていたなんて……情けないです」
「そんなことはない。俺が無事だったのはお前のお陰だ。お前は、俺にとって勝利の女神だからな」
「?」
ギュスターブは首にかけていた金色のペンダントを引っ張り出すと、蓋をずらす。
「そ、それ……!」
ペンダントに収められていたのは、フリーデの絵姿だ。その姿は大人の今の姿。
「俺の勝利の女神だ」
「なんで私の絵を」
「愛してる妻のことを思えば、死ぬわけにはいかないだろう」
どう反応していいのか分からず、気恥ずかしさに俯いてしまう。
作中で、ギュスターブは自分の墓にそのペンダントを供えて欲しいと、ユーリに頼んでいたのは、作中でも印象的なシーンの一つだった。
――……ギュスターブ様は、ずっとフリーデを愛していた……?
「そのペンダントはいつから、身につけてたのですか……?」
ペンダントは細かな傷があり、鍍金もところどころ剥げている。
「お前と結婚してから。俺はもう独り身じゃない。護るべき存在がいると、自分に言い聞かせ、何が何でも生きて帰ると誓うため」
「……知りませんでした。あなたがそんなことをなされる方だなんて……考えもしませんでした」
「それは俺もだ。俺がこんなことを……結婚する前の俺だったら女々しいと笑っていただろう。だが、たとえ絵であっても、お前をそばで感じたかった」
「……私たちに必要なことは、一緒にいて、互いのことを知ることなのかもしれません」
知ることでどうなるのかは、分からない。しかしどのみち離婚するのだから知らなくても構わないとはもう思えなかった。
「知るとは何を?」
「どんなことでも。今回みたいな大事なことだけでなく、好きな食べ物とか、趣味とか、子どもの頃のことだとか……とにかく色々ですっ」
原作でもギュスターブの個人の趣味嗜好に関してはほとんど書かれていない。
もちろん何のために出征を続けていたのかも。
「……フリーデのことも教えてくれるのか」
ギュスターブはそうおずおずと聞いてくる。
「そうです。あ、もちろんこれで離縁の契約がなかったことにはならないのであしからず。これはあくまで互いを知るためです。離縁したあとに、さっきみたいにとんでもない事実を知ったら、後悔するので。離縁した暁には、はあなたの全てを知った上で、気持ち良く、後腐れなくしたい。そうしてお互いに新生活を送るんです。いいですか?」
「分かった」
ギュスターブは頬をゆるめ、頷く。
「……それにしても、はぁ……」
「そんなに呆れたか?」
「どうして一言、仰ってくださらなかったのですか。幼い私でも説明してもらえれば……」
「絵姿だけでお前のことしか考えられなくなる俺が、本物のお前を抱きしめ、その美しい声で囀られたら、どうなる?」
「……どうなるのですか?」
ギュスターブは重々しく息を吐き出す。
「戦場になど出かけられなくなる。死ぬ気で戦うことなどできるはずがない。そういう心の隙が死を招く。そういう奴らを戦場で大勢、見てきたからな……」
「戦場というのは難しいものなんですね」
「……俺が、自分が思った以上にお前に恋をしていた、ということかな」
「……よ、よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく」
この廊下の寒さにあてられているのだろうかと疑いたくなる。
「ギュスターブ様、立って下さい」
「ん?」
「いいから、早く」
ギュスターブは素直に立ち上がった。
「あなたがどれほど野宿に慣れていようとも、関係ありません。ここは野営地ではなく、屋敷なのですから。寝室で寝るべきです。そのほうが疲れも取れるでしょう」
「だが、俺には――」
フリーデは溜息をこぼす。
「一緒に眠るのに資格もへったくれもありませんから。あなたがこうして毎夜、廊下で番をしているなんて……ユーリが知ったらびっくりするし、悲しみます」
フリーデたちは部屋に入る。ユーリはすぅすぅと静かな寝息を立てている。しかしその両手が無意識なのか、フリーデとギュスターブが眠っている場所を探るようにかすかに動かされている。
フリーデは口元をかすかに緩め、ユーリを起こさぬよう、彼の右手を優しく握りながら寝台に横たわった。
その様子を見ていたギュスターブもフリーデに倣い、ユーリの左手を包み込み、寝台に横たわる。さすがに彼ほどの大柄な男が横になると、沈み方も大きい。
ユーリを挟んで向かい会うように横になる。
二人はしばし互いを見つめ合った。最初こうして眠ることになった時に感じていたのは忌避感だった。でも今は、それはない。
もちろん照れや恥ずかしさはある。
「……戦いの中、怖くはなかったのですか。いくら領地や私のためとはいえ、あなたは命のやりとりをしていたんですよ」
「怖かった。だがどんな状況の中でも人は馴れてしまうものだ。人を殺すことさえも。はじめて人を斬った時は震えし、血の臭いで気分が悪くなった。自分がとんでもない過ちをおかしたように思えて吐いたし、もう二度と戦いたくない、全ての責任を別の人間におしつけたいとそんなことばかり考えていた」
戦では負けなしと言われ、狂犬や戦争狂などと不名誉なあだ名で呼ばれるギュスターブがそんな感情を持っていたなんて思いもしなかった。彼は最初から完成されたものだと勝手に思い込んでいた。
「……何がきっかけでその気持ちが変わったのですか」
「戦いが終わったあと、はじめて辺りを見回したんだ。野営地には大怪我を負った者、もう動かなくなった者、戦のあとはそうした兵士がごまんといた。全員が我が家を勝利させるため、俺を守るために敵と戦ったことに気付いた。戦の最中では自分のことで手一杯で、自分がどれだけ多くの人間から守られていたか考えもしなかった……」
ギュスターブはその時のことを反芻するかのように視線を宙へ向ける。
「俺の命は俺だけのものではないとはじめて実感した。怖がっている場合じゃない。大怪我を負った兵士や斃れた兵士たちには家族もいれば恋人もいたかもしれない。大勢の人々の運命が俺の双肩にのっていると思ったら、逃げたいとか戦いたくないとか思っている場合じゃないと思った。俺以外の誰がこいつらを率いるんだってな」
「……すごいですね。そんな風に考えられることが」
ギュスターブはこれほどまでに饒舌だったのか。発端はフリーデの何気ない疑問だったが、それに彼は真摯に答えてくれている。決して弁の立つ人ではないが、それでも懸命に。
そこに彼の人柄が表れているように思えた。
――ギュスターブはただの冷酷な武人ではない。あなたは一体、どれだけの本心をその胸に、隠してきたのですか?
原作においてフリーデを早々に失ったギュスターブは、ユーリの良き師であり、保護者だ。彼に生き残り方を教えても、その胸の内を完全に見せたことはないし、ユーリもまた無理に聞き出そうともしなかった。信頼しあいながらも、一閃を引いた関係だと、今原作を思い返してみると感じる。
【このペンダントを、墓に供えてくれ】
彼の人柄を唯一知ることができるのは、最期の願いをしたあの時だけ。
自分の絵姿のことを思い出すと、やっぱりムズムズする。
「寝る前に変な話をしたな。悪い」
フリーデは首を横に振った。
「私が聞いたことですから。それに、変なことではありません。だってあなた方がそうして道を切り開き、手に入れたのがこの北部なんですよね」
ギュスターブは声を出さずに、形のいい唇がゆるやかな弧を描いて微笑む。
「何です?」
その微笑みがなんだかこれまで見たどんな笑みとも違う、はじめて見るように思えた。
ギュスターブとの向き合いかたが変わったから、そんな風に思うのだろうか。
「お前が伴侶で良かった、と思ってな」
「離縁予定ですが」
「ここでそれを言うか?」
「なし崩し的になかったことにされては困りますから、しっかり楔は打ち込んでおきます」
「それもいずれ変えてみせる」
「とんでもない楽天家、なんですね」
「そうなでなければ、戦は耐え抜けない」
ふぅ、とフリーデは小さく息を吐き出す。ほとんど喋っていたのはギュスターブだが、聞いているフリーデもまた疲れた。瞼が下がるに任せる。
「おやすみなさい、ギュスターブ様」
「……おやすみ、フリーデ」
※
フリーデはあっという間に眠りに落ちて、寝息をたてる。
ユーリと一緒にいると本物の親子のように見えて、口元が自然と緩んだ。
“私たちに必要なのは、一緒にいて、互いのことを知ることなのかもしれません”
フリーデの言葉がよみがえる。
しかしギュスターブはフリーデのことをよく知っている。
己のを励ますために彼女と距離を取っていたが、ルードが戦地へフリーデの様子を書き送ってくれていたからだ。
その文字の一つ一つを記憶している。
あの年頃の子どもは親に甘やかされるから偏食になりがちだが、フリーデは一切そんなことがなかった。食べられないものがほとんどなく、何でも食べて、嫌いなものはなかった・たしかに彼女には最高の食事をと命じたが、とはいえ、帝都で食べていたものとは比べると品数や質が乏しかったはずだが、フリーデは美味しいと、残さず食べたらしい。
最初ドレスも地味な色合いで、装飾のついた華美なものは身につけることがなく、装飾品も自分がつけるのは……と遠慮して、とても侯爵家の娘とは思えないほどだった。
好きな色は青。好きな花は北部の春を象徴するリナスの花。好きな動物はうさぎ。
はじめて北部に来た時、一面の雪景色を見たフリーデは飛び跳ねるようにはしゃぎまわって、雪だらけになりながら、はじめて快活に笑い、その笑顔に屋敷の者の顔まで笑み崩れた。そしてバルコニーで白い息を吐きながら、屋敷中の人々を魅了するような美しい歌を聞かせてくれたという。
フリーデのことをもっと知りたい。その欲求が尽きることはない。
――手紙以外で、お前を知ることができるのを楽しみにしている。
――ギュスターブ様は?
そこにいるべき、ギュスターブの姿はなかった。
時刻は深夜二時。屋敷は、しん、と静まり返る。
――お手洗いかしら。
フリーデは体を起こすと、彼がいたであろう場所に手で撫でる。
「えっ」
びっくりしたように引っ込めた。そこは冷たかった。
――どうして?
寝台を抜け出したのなら、温もりはあっていいはずなのに。
これではまるで、最初からいなかったようではないか。
たしかにギュスターブは一緒に眠っていたはず。
胸騒ぎのようなものを覚えたフリーデは上掛けを羽織って部屋を出た。
「っ!」
びくっと小さく肩を跳ねさせる。
――な、なんで!?
そこにはギュスターブが剣を抱えるようにして蹲っている。
――こんなところで、眠って……?
「どうした?」
「ひゃ」
ギュスターブが目を開け、顔を上げた。
朝焼けの空を思わせる深紅の瞳に、フリーデの姿がうつりこむ。
「お、起きていたいのですか」
「扉を開ける音で目が覚めた」
「お、音って……」
音らしい音などたてたつもりはない。ただ僅かに蝶番が軋んだ程度の、僅かなものでしなかったはず。
「そんなことより、こんなところで何をしていたのですか?」
「眠っていた」
「眠ってって……。どうしてベッドではなくて…………いつも、そうしていたのですか?」
「俺とは眠りたくないだろう。いや、これではお前に非があるようだな。俺にはまだ一緒に眠る資格がない、そう思っただけだ」
「資格……」
フリーデは溜息をついた。
「それで廊下で? 自分の部屋で眠ればいいでしょう。こんなところで眠るなんて風邪を引いてしまいます」
「これくらいどうということもない。野営には馴れている。それにここは屋内だ。これでいちいち風邪を引いていたら騎士は務まらない」
ギュスターブは何を言っているんだという顔で、フリーデを見つめてくる。
彼ら武人の生態というのは理解できない。
「それに、部屋で寝ろなんて酷なことを言うな」
「どこが酷なんですか……」
「もし緊急事態が起きればどうする? 誰かがお前たちを守らないといけない」
「でも屋敷は団員のみなさんが夜通し警備を……」
「俺には何も守らせてくれないのか? 離縁していない以上、俺がお前の夫であることに変わりはない。――もういいだろ。用事がないのなら部屋に」
「……いいえ。私からお話がありますので、せっかくなので今からしようとかと思います」
フリーデは、ギュスターブと向かい会うように床に座った。
絨毯ごしとはいえ、冷たさがお尻に伝るせいで、ぶるっと震えてしまう。
「……これを下に敷け」
ギュスターブは自分がまとっていた外套を差し出してくる。
「それはあなたの……」
「いいから」
「……ではありがたく借ります」
フリーデは行儀が悪いと思いつつ外套をお尻に敷かせてもらう。それまでギュスターブがずっと身にまとっていたせいか、温もりがあった。
「それで、話とは?」
「記録を読みました」
ギュスターブの目が、不思議そうにこちらを窺う。
「財務記録です。あなたが領地戦に出征し、領地の収入の不足分を補っていてくださったんですね……。それだけでなく、私が服飾に使っていたお金も含め、ギュスターブ様や騎士団の皆さんが命のやりとりをして得たお金で……」
そのことを知った時の恥ずかしさは何と言っていいか分からなかった。
自分に感心を払わない夫への恨みつらみを抱えながら、フリーデこそ領地の財政に関して全く無知で、自分が使うお金がどこからきているのか考えもしなかった。
あまつさえ、その服飾品を実家に言われるがまま送っていた。
過去の愚かで無思慮だった自分を叱りつけたい。
「気に病むことはない。使う為に稼いだんだ」
「気に病みます。それだけの愚かな真似をしてきたのですから……」
「愚かじゃない」
「いいえ、愚かです。子どもとはいえ仮にも私は、伯爵夫人だったのに」
その時、不意にギュスターブが体を起こし、そしてフリーデの右手を優しく両手で包み込んだ。
その眼差しには真摯な光が浮かび、じっとフリーデのことを見つめる。
威圧感はなかった。むしろその瞳に映った光は普段よりもずっと柔らかく、引き込まれるようだった。
鼓動が早くなり、体が熱を帯びる。
「そんなことを考えないでくれ、フリーデ。お前は、公爵家やもしかしたら皇室にさえ嫁ぐことのできる侯爵家の令嬢だ。それを俺が、身分不相応であることを承知の上で、皇帝陛下に願い出て、妻として迎えた。俺には、お前に一切の不自由をさせない責任があるんだよ」
「ギュスターブ様……」
「どれほどの贅沢をしようとも構わない。欲しいものは買ってくれ。それさえ遠慮されたら、俺は一体、お前に何を与えられる?」
ギュスターブはかすかに声を震わせ、両手で包み込んだフリーデの手の甲に額を押し当ててくる。
こんな彼の姿を初めて見る。ギュスターブはそんな悲壮な決意で常に戦場に出ていたのか。戦争が好きでも、血に酔うわけでもなく。ただ身分不相応な結婚で迎えた幼妻のためにその命を削っていたなんて。
「……あなたが命をかけて私のために動いてくれていたのに、私は拗ねて屋敷に籠もっていたなんて……情けないです」
「そんなことはない。俺が無事だったのはお前のお陰だ。お前は、俺にとって勝利の女神だからな」
「?」
ギュスターブは首にかけていた金色のペンダントを引っ張り出すと、蓋をずらす。
「そ、それ……!」
ペンダントに収められていたのは、フリーデの絵姿だ。その姿は大人の今の姿。
「俺の勝利の女神だ」
「なんで私の絵を」
「愛してる妻のことを思えば、死ぬわけにはいかないだろう」
どう反応していいのか分からず、気恥ずかしさに俯いてしまう。
作中で、ギュスターブは自分の墓にそのペンダントを供えて欲しいと、ユーリに頼んでいたのは、作中でも印象的なシーンの一つだった。
――……ギュスターブ様は、ずっとフリーデを愛していた……?
「そのペンダントはいつから、身につけてたのですか……?」
ペンダントは細かな傷があり、鍍金もところどころ剥げている。
「お前と結婚してから。俺はもう独り身じゃない。護るべき存在がいると、自分に言い聞かせ、何が何でも生きて帰ると誓うため」
「……知りませんでした。あなたがそんなことをなされる方だなんて……考えもしませんでした」
「それは俺もだ。俺がこんなことを……結婚する前の俺だったら女々しいと笑っていただろう。だが、たとえ絵であっても、お前をそばで感じたかった」
「……私たちに必要なことは、一緒にいて、互いのことを知ることなのかもしれません」
知ることでどうなるのかは、分からない。しかしどのみち離婚するのだから知らなくても構わないとはもう思えなかった。
「知るとは何を?」
「どんなことでも。今回みたいな大事なことだけでなく、好きな食べ物とか、趣味とか、子どもの頃のことだとか……とにかく色々ですっ」
原作でもギュスターブの個人の趣味嗜好に関してはほとんど書かれていない。
もちろん何のために出征を続けていたのかも。
「……フリーデのことも教えてくれるのか」
ギュスターブはそうおずおずと聞いてくる。
「そうです。あ、もちろんこれで離縁の契約がなかったことにはならないのであしからず。これはあくまで互いを知るためです。離縁したあとに、さっきみたいにとんでもない事実を知ったら、後悔するので。離縁した暁には、はあなたの全てを知った上で、気持ち良く、後腐れなくしたい。そうしてお互いに新生活を送るんです。いいですか?」
「分かった」
ギュスターブは頬をゆるめ、頷く。
「……それにしても、はぁ……」
「そんなに呆れたか?」
「どうして一言、仰ってくださらなかったのですか。幼い私でも説明してもらえれば……」
「絵姿だけでお前のことしか考えられなくなる俺が、本物のお前を抱きしめ、その美しい声で囀られたら、どうなる?」
「……どうなるのですか?」
ギュスターブは重々しく息を吐き出す。
「戦場になど出かけられなくなる。死ぬ気で戦うことなどできるはずがない。そういう心の隙が死を招く。そういう奴らを戦場で大勢、見てきたからな……」
「戦場というのは難しいものなんですね」
「……俺が、自分が思った以上にお前に恋をしていた、ということかな」
「……よ、よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく」
この廊下の寒さにあてられているのだろうかと疑いたくなる。
「ギュスターブ様、立って下さい」
「ん?」
「いいから、早く」
ギュスターブは素直に立ち上がった。
「あなたがどれほど野宿に慣れていようとも、関係ありません。ここは野営地ではなく、屋敷なのですから。寝室で寝るべきです。そのほうが疲れも取れるでしょう」
「だが、俺には――」
フリーデは溜息をこぼす。
「一緒に眠るのに資格もへったくれもありませんから。あなたがこうして毎夜、廊下で番をしているなんて……ユーリが知ったらびっくりするし、悲しみます」
フリーデたちは部屋に入る。ユーリはすぅすぅと静かな寝息を立てている。しかしその両手が無意識なのか、フリーデとギュスターブが眠っている場所を探るようにかすかに動かされている。
フリーデは口元をかすかに緩め、ユーリを起こさぬよう、彼の右手を優しく握りながら寝台に横たわった。
その様子を見ていたギュスターブもフリーデに倣い、ユーリの左手を包み込み、寝台に横たわる。さすがに彼ほどの大柄な男が横になると、沈み方も大きい。
ユーリを挟んで向かい会うように横になる。
二人はしばし互いを見つめ合った。最初こうして眠ることになった時に感じていたのは忌避感だった。でも今は、それはない。
もちろん照れや恥ずかしさはある。
「……戦いの中、怖くはなかったのですか。いくら領地や私のためとはいえ、あなたは命のやりとりをしていたんですよ」
「怖かった。だがどんな状況の中でも人は馴れてしまうものだ。人を殺すことさえも。はじめて人を斬った時は震えし、血の臭いで気分が悪くなった。自分がとんでもない過ちをおかしたように思えて吐いたし、もう二度と戦いたくない、全ての責任を別の人間におしつけたいとそんなことばかり考えていた」
戦では負けなしと言われ、狂犬や戦争狂などと不名誉なあだ名で呼ばれるギュスターブがそんな感情を持っていたなんて思いもしなかった。彼は最初から完成されたものだと勝手に思い込んでいた。
「……何がきっかけでその気持ちが変わったのですか」
「戦いが終わったあと、はじめて辺りを見回したんだ。野営地には大怪我を負った者、もう動かなくなった者、戦のあとはそうした兵士がごまんといた。全員が我が家を勝利させるため、俺を守るために敵と戦ったことに気付いた。戦の最中では自分のことで手一杯で、自分がどれだけ多くの人間から守られていたか考えもしなかった……」
ギュスターブはその時のことを反芻するかのように視線を宙へ向ける。
「俺の命は俺だけのものではないとはじめて実感した。怖がっている場合じゃない。大怪我を負った兵士や斃れた兵士たちには家族もいれば恋人もいたかもしれない。大勢の人々の運命が俺の双肩にのっていると思ったら、逃げたいとか戦いたくないとか思っている場合じゃないと思った。俺以外の誰がこいつらを率いるんだってな」
「……すごいですね。そんな風に考えられることが」
ギュスターブはこれほどまでに饒舌だったのか。発端はフリーデの何気ない疑問だったが、それに彼は真摯に答えてくれている。決して弁の立つ人ではないが、それでも懸命に。
そこに彼の人柄が表れているように思えた。
――ギュスターブはただの冷酷な武人ではない。あなたは一体、どれだけの本心をその胸に、隠してきたのですか?
原作においてフリーデを早々に失ったギュスターブは、ユーリの良き師であり、保護者だ。彼に生き残り方を教えても、その胸の内を完全に見せたことはないし、ユーリもまた無理に聞き出そうともしなかった。信頼しあいながらも、一閃を引いた関係だと、今原作を思い返してみると感じる。
【このペンダントを、墓に供えてくれ】
彼の人柄を唯一知ることができるのは、最期の願いをしたあの時だけ。
自分の絵姿のことを思い出すと、やっぱりムズムズする。
「寝る前に変な話をしたな。悪い」
フリーデは首を横に振った。
「私が聞いたことですから。それに、変なことではありません。だってあなた方がそうして道を切り開き、手に入れたのがこの北部なんですよね」
ギュスターブは声を出さずに、形のいい唇がゆるやかな弧を描いて微笑む。
「何です?」
その微笑みがなんだかこれまで見たどんな笑みとも違う、はじめて見るように思えた。
ギュスターブとの向き合いかたが変わったから、そんな風に思うのだろうか。
「お前が伴侶で良かった、と思ってな」
「離縁予定ですが」
「ここでそれを言うか?」
「なし崩し的になかったことにされては困りますから、しっかり楔は打ち込んでおきます」
「それもいずれ変えてみせる」
「とんでもない楽天家、なんですね」
「そうなでなければ、戦は耐え抜けない」
ふぅ、とフリーデは小さく息を吐き出す。ほとんど喋っていたのはギュスターブだが、聞いているフリーデもまた疲れた。瞼が下がるに任せる。
「おやすみなさい、ギュスターブ様」
「……おやすみ、フリーデ」
※
フリーデはあっという間に眠りに落ちて、寝息をたてる。
ユーリと一緒にいると本物の親子のように見えて、口元が自然と緩んだ。
“私たちに必要なのは、一緒にいて、互いのことを知ることなのかもしれません”
フリーデの言葉がよみがえる。
しかしギュスターブはフリーデのことをよく知っている。
己のを励ますために彼女と距離を取っていたが、ルードが戦地へフリーデの様子を書き送ってくれていたからだ。
その文字の一つ一つを記憶している。
あの年頃の子どもは親に甘やかされるから偏食になりがちだが、フリーデは一切そんなことがなかった。食べられないものがほとんどなく、何でも食べて、嫌いなものはなかった・たしかに彼女には最高の食事をと命じたが、とはいえ、帝都で食べていたものとは比べると品数や質が乏しかったはずだが、フリーデは美味しいと、残さず食べたらしい。
最初ドレスも地味な色合いで、装飾のついた華美なものは身につけることがなく、装飾品も自分がつけるのは……と遠慮して、とても侯爵家の娘とは思えないほどだった。
好きな色は青。好きな花は北部の春を象徴するリナスの花。好きな動物はうさぎ。
はじめて北部に来た時、一面の雪景色を見たフリーデは飛び跳ねるようにはしゃぎまわって、雪だらけになりながら、はじめて快活に笑い、その笑顔に屋敷の者の顔まで笑み崩れた。そしてバルコニーで白い息を吐きながら、屋敷中の人々を魅了するような美しい歌を聞かせてくれたという。
フリーデのことをもっと知りたい。その欲求が尽きることはない。
――手紙以外で、お前を知ることができるのを楽しみにしている。

