一瞬、あの元彼が脳裏に浮かんで、消し去る。
 思い出したくもない唯一の、私の付き合ってた人……。
 
 鍋がコトコトと玉ねぎを煮ているのを見ながら、コンソメを振りかける。
 料理も慣れてきたから目分量でいけるでしょ。
 最後に塩胡椒で整えればいいし。
 
 ケチャップライスはもう出来上がったみたいで、雅にいが後ろの棚からお皿を取り出して盛り付けていた。
 
 早く玉ねぎに火が通れ、と念じながら換気扇に引っ掛けられていたお玉で鍋の中身をかき混ぜる。
 ケチャップの匂いと、コンソメの匂いが鼻に入ってきて、お腹空いてきた。
 
「卵はどうする? 昔ながら? フワトロ? ドレスもできるけど」
「やっぱ雅にい、料理できる人でしょ」
 
 ドレスもできるけど、ってサラッと言えるレベルには私は達してない。
 驚きながらも指摘すれば、私の知らない雅にいの話が飛び出る。
 
「大学時代、厨房でバイトしてたから」
「えっ、知らない!」
「ナミもよく行く、駅前の洋食屋さんだよ」
 
 駅前の洋食屋さん。オシャレなカフェみたいな雰囲気で、私たち家族の外食ではお決まりの店だ。
 オムライスやビーフシチュー。ステーキもあるから、お父さんもお母さんも大好きだった。
 
 私は、いつだってオムライスグラタンを頼んでいた。
 中学時代の元彼に告白された場所でもある。
 あの時は緊張で味は、わからなかった。
 そんなお店で、雅にいが働いてた?
 私は見かけたことないのに。
 
 私の心の中を見透かしたように、雅にいはバターをフライパンに溶かした。
 
「キッチンだから、お客様からは見えねーの」
「えー、じゃあ私が行った時も居たのかなぁ」
「かもな、で、卵どーすんの?」
 
 そうだ、卵。
 昔ながらの薄焼き卵で巻いたのも好きだし、フワトロも捨てがたい。
 ドレスは見てみたいけど……さすがに、お願いするのは図々しい気がした。
 
「決めれねーなら、フワトロな」
「雅にいがフワトロ好きなの?」
「おう」
「じゃあ、私もそれで」
 
 フライパンがジュワッと音を立てて、バターを広げていく。雅にいは「はいよ」と言いながら、卵を流し込んだ。
 
 卵の縁から火が通っていく側からくるくるとかき混ぜる。
 よく、動画で見てるようなキレイなオムレツになっていく様を見つめてるうちに、玉ねぎスープが沸騰していた。
 
 塩胡椒を軽くしてから火を緩めて、食器棚から出した器に味見用に少しだけ取り出す。
 一口飲んでみれば、いいできだ。
 
「あ、でも、待って」
「何? 急に」
「雅にい、はい、これ飲んでみて」
 
 同じ器にもう一度スープを掬い取って、雅にいの口に近づける。
 雅にいは何か言いかけたけど、大人しく一口飲んで「ばっちり」と微笑んでくれる。
 
 オムライスを待ちながら、時々、鍋をかき回す。
 
「ほい、お待ち」
 
 オムライスが一つできたみたいで、私の手にお皿が渡される。
 先にキッチンを出て、テーブルに持っていく。置いて戻れば、雅にいはすぐ次のオムレツに取り掛かっていた。
 
 もう一つ出来上がる前に、スープの火を止めて器によそう。
 
 味見に使ったやつは自分用にしよう。
 洗ったほうが良いんだろけど、面倒だし。
 スープを二つ持って、運ぼうとすれば、揺れてちょっと親指に掛かってしまった。
 
「あつっ」
「は? 大丈夫?」
 
 オムレツも放っておいて、急いで私を追いかけてきた雅にいに「焦げちゃうよ!」と注意すれば、首を横に振られた。
 
「それより、ナミに決まってんだろ」
 
 親指をじっくりと見つめて、ふぅっと安心したようにため息を吐く。
 
「たった数適かかったくらいだよ、過保護だな」
「当たり前だろ」
「火傷にはなってないから、焦げちゃうから早く早く」
 
 両手が塞がってるから、雅にいの背中を押したくても押せない。
 渋々とフライパンの前に戻って行った雅にいの背中を見送ってから、テーブルにスープもセットする。
 
 スプーンを用意しようとキッチンの食器棚を開ける。ちょうど、もう一つのオムライスもできたみたいでお皿を置いた音がした。
 振り返れば、焦げ目のついたオムライス。
 
「ほら、焦げちゃってる! そっち、私食べる」
「ダメ、ナミはきれいにできた方食べて」
「だって、私のせいじゃん」
 
 首を横に振って、お皿を奪おうとすれば、雅にいは身長を利用して高くに持ち上げてしまう。
 背伸びしてもお皿の底にしか触らなくて、むっと唇を尖らしてしまった。
 
「ナミの歓迎会だし、俺の料理おいしいって思ってもらいたいから今日は大人しくキレイな方を食べなさい」
「焦げ目もおいしいじゃん」
「おいしいけど。俺焦げてるほうが好きだからこれわざとだし」
 
 言い訳だとわかったけど、雅にいの固い意志に負けて「わかったよ」といえば、やっとお皿を普通の位置に下ろした。
 
 二人でテーブルに向かい合わせで座って、両手を合わせる。
 
「いただきます」
 
 スプーンを、卵に差し込めば、中からとろとろの卵が出てきて本当においしそう。
 一口食べてみれば、私の反応を待っているようで雅にいはスプーンを持ったまま止まっている。
 
「おいひい」
 
 洋食屋さんのオムライスよりもおいしいかもしれない。
 私の好きなケチャップの濃さだし、卵はとろとろだし。
 
「よかった、じゃあ俺も」
 
 そう言ってスープを口に運んで、ごくんっと飲み干す。
 飲み終わった雅にいが、あまりにも恍惚な表情を浮かべるから、目を逸らしてしまった。
 
「おいしいよ、ナミ」
「よかった、です」
 
 オムライスとスープを食べながら、大学生の時の雅にいの話や、バイト先の質問攻めをする。
 
「大学って何学んでたの」
「数学」
 
 意外。雅にいは勝手にもっとオシャレな学部に居そう。経済とか経営とか?
 オシャレな学部が、自分でも想像できなかったけど。
 
「大学時代、恋人は?」
「いないよ、んなもん」
「照れてる?」
「照れてない」
 
 確かに、恥ずかしそうにというよりも、どうでもいいことみたいな言い切り方だった。
 大学生になれば、自然と恋人とかできるもんだと思ってた。
 
 意外だな。イケメンだし、料理もできるし、雅にい非の打ち所がないのに。
 
「バイトって洋食屋さんだけ?」
「そんな大学生の生活に興味あんの?」
「あるある、めっちゃある!」
「ナミも大学行くの?」
「うーん、たぶん、行くかな。行きたい学部とかはまだわかんないけど」
 
 お父さんのようにしっかりと働ける社会人になりたいから、大学は出たい。
 学部は想像つかないから、高校在学中に決めようと思ってるけど。
 
「雅にいは、何が良いと思う?」
「行かなくて良いんじゃない?」
「えー、なんで」
「高卒でも、色々選択肢はあるでしょ。大学生なんてロクでもない方が多いよ」
 
 否定的な言葉だけど、想像もできる。
 最後のモラトリアムという言い方もされるくらいだし。
 私は大卒という名前が欲しいだけだから、そう言われるのもわかるし。
 
「でも、大学は行きたいな。キャンパスライフとかしてみたい!」
「心配だなぁ、ナミは純粋だから」
「大丈夫だもん、もう高校生にもなるんですよ、スイも甘いも経験してまーす」
 
 元彼に浮気された、とか、友達に仲間はずれにされた、とか。
 
 よくありがちな経験だろうけど、いくつかしてきてる。
 ただのよくわかってない子どもじゃない。
 
 胸を張って言えばスープを飲む手を止めて、雅にいは私の顔をまっすぐ見つめた。
 
「たとえば?」
 
 どきんっとする。
 想像していたことを口にするのは、ためらわれた。

「内緒!」
 
 慌てて誤魔化せば「ふーん」と軽い返答だけ。

 
 ごはんを食べ終わり、二人で並んで食器を洗う。
 
「一緒に暮らす上で、ルールとか決めた方がいいのかな? でも、雅にいの家だから、私は従うよ」
「あんま気にしなくていいよ、どうしても忙しくて手が回らないはあるかもしれないけど、家事は俺やるから。ナミはいてくれたらいい」
 
 まるでお母さんみたいな言い方なのに、鼻に泡をつけてるから、つい気が逸れてしまう。
 
「私もちゃんとやる! 一人暮らしのつもりだったし」
「じゃあ、二人で夜ごはんは作ろうな」
 
 鼻の泡を人差し指ですくいとって流せば、かっこつけていた雅にいは照れたように顔を赤くした。
 洗い物も終わり、乾燥させればもうやることもない。
 
「じゃあ、部屋に戻ります」
「え、まだいてよ」
「え?」
「テレビ見よ、あ、YouTubeも見れるよ、ゲームする?」
 
 リビングの大きなテレビを指しながら、雅にいに引き止められる。
 久しぶりに会ったから話したいことでも募ってるのかもしれない。
 
 頷けば軽々と持ち上げられて、黒い大きなソファに連行された。
 まさか持ち上げられるとは、思っても見なかった。
 そのまま隣に、座らされて、テレビを操作し始める。
 
「雅にい?」
「んー? ナミは何がいい? ドラマ? ゲーム?」
「雅にい、近くない?」
「昔もこうやってテレビ見たじゃん」
 
 それはそうだけど!
 昔は昔。
 雅にいにとっては、私は変わらない小さい子のままなのかもしれない。