壊れそうになっている心臓は、形をなんとか保ちながら、普通の生活を送っている。
それなのに、雅嗣は次から次へと、私の心臓をおかしくすることばかりした。
帰ろうとしたところで、『図書室集合』と雅嗣からメッセージが届く。
足を踏み入れれば相変わらずホコリっぽい、夕日に染まった図書室。
そして、なぜか私は、あの時、見てしまった光景の女の子の場所に立っている。
「ほら、目を覗き込むだけであの角度になるだろ?」
誰かに見られたら、誤解、じゃないけど、困るはずなのに。
雅嗣は私を本棚に押し付けながら、見下ろす。
「先生」
「やば……先生呼びもあり」
「近いです。あれは勘違いなのは分かりましたから」
できる限り取り繕って、言葉にしても一向に離れる気配はない。
むしろ、どんどん顔が近づいてきてる。
「首、痛めるよ」
「本望です」
ちゅっ、と唇にキスをして、嬉しそうに笑うから。
もう何も言えなくて、黙って見つめる。
「あー好き。めっちゃ好き。可愛いから見つめないで」
私の頬をさすさすと撫でながら、またキスをする。
あれから何度好きと可愛いを言われたか、もう数えられなくなってきた。
「好きだよ、ナミ」
「学校ではやめようよ、先生」
「見られないから大丈夫。ここ穴場だから」
穴場って有名だからこそ、誰か来ないか私はヒヤヒヤしているのに。
雅嗣は気に求めず、私を見つめて、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それに俺、耳良いから足音も……」
言いかけて、急に黙ったかと思えば、パッと離れて隣の本棚にスタスタと移動していく。
私も耳を澄ませれば、二人分の足音が聞こえた。
ちらりと向かってくる足音の方を見れば、正当な理由で図書室に来た人だったらしく、本を一冊取り出しては戻してを繰り返してる。
雅嗣の方を振り返って「先に帰る」と口パクすれば、残念そうな顔でこちらを見て、しゅんとしている。
つい、私も甘くなって「家でね」と言ってしまうから、もうどうにもならないのかもしれない。
図書室を出れば、あの日と同じように夕月くんと目が合った。
ジャージ姿の夕月くんに、近づきながら声をかける。
「今日も自主練?」
夕月くんは「おう」とだけ、小さく答える。
ユイも今日は、何も用事がないはずなのに……
と思っていれば、階段から現れたユイに腕を取られた。
「ナミ、いたー! 帰ろっ」
「夕月くんはいいの?」
「一緒に帰る?」
「あー、うん、送ってく。待ってて」
あの日みたいに、パタパタと足音を立てて夕月くんが去っていく。
ユイは相変わらず私の右腕に絡みついていた。
「近況を聞かせてもらってないからね、まだ」
「付き合ったよ、とは言ったじゃん」
「でも、学校じゃ詳しく話せないでしょ」
雅嗣の名前を出すわけにもいかないし、「付き合ったよ」しか確かに言っていない。
家では、常に雅嗣がべったりだから、電話で話すことも減ってしまった。
それがイヤじゃなくて、私も自分から雅嗣と一緒にいるんだから、恋愛で頭がおかしくなってるとも思う。
すぐに戻ってきた夕月くんは、リュックを肩に掛けて「じゃ、行こうか」と口にする。
三人で並んで、テストや先生の話題で盛り上がりながら学校を出た。
学校からある程度慣れたところで、キョロキョロと周りに人がいないことを確認してから、ユイは小声で聞いてくる。
「それで?」
「それで……?」
「三宮さんとどうなの?」
先生と付けるともし聞かれた時に困るからという気遣いだとは思う。
それでも、違う呼び方に私が少しくすぐったくなる。
歩きながらも、事実を答えれば、夕月くんもユイもニヤニヤとし始めた。
「あのあと、両思いなことを伝え合って、付き合ったよ」
「それで?」
「えー、それで?」
二人して興味津々に、私に言葉の続きを促す。
「デートとか、家でのこととか。あ、そうだ。最近三宮さんが冷たいって噂になってるの知ってる〜?」
少し前を歩いていたユイが思い出したように、笑いながらスカートをくるんっと翻して、振り返る。
冷たい、って噂になってるのは知らなかったな。
でも、雅嗣は私に信じさせると宣言した通り、他の子への優しさを一切やめた。
先生としてやらなければいけない範囲はしっかりとやってるけど。
必要以上の距離は近づかないし、自分ではなくても困らないものは、他の先生にお願いしてる。
そんな行動を私に何度も見せていた。
「知らないけど……」
「けど?」
「私以外の子には必要以上に優しくしないようにしてる、みたい」
「愛されてるじゃん」
嬉しそうに近寄ってきて、私の頭をわしゃわしゃとユイが撫でる。
大人しく受け入れれば、夕月くんは遠慮がちにユイの頭を撫でた。
「なんで?」
「林さんとじゃれてる、ユイが可愛かったから」
「惚気だ!」
「今はナミの惚気を聞いてるの!」
耳まで赤く染め上げて、ユイがぷいっと夕月くんから顔を背ける。
そんな仕草すら愛しいと言った表情で夕月くんは見つめていた。
ラブラブだなぁ、と思いながらも、私も人のことを言えないなと少し考えてしまう。
「ふふ、幸せだね」
「ナミが幸せなら私も幸せ」
「俺も二人が幸せなら幸せだよ」
「それは、三宮さんに怒られそう」
ユイがふざけて口にすれば、夕月さんがわざとらしく言い直す。
「ユイが幸せそうだから幸せだ」
いい友だちに恵まれて、雅嗣という優しい彼氏がいる。
これ以上ないほどに幸せな時間だ。
車のエンジン音が聞こえて、振り返れば、ガラス越しに雅嗣と目が合った。
私たちに近づいて、ピタッと止まる。
「夕月は、ナミに近づくな。新田さんも、ほどほどに」
「えー嫉妬深!」
ユイが私の手を引き寄せて、体ごと抱きしめる。
そして、雅嗣に向かって、べーと舌を出す。
「恋人かもしれないですけど、私はナミの親友なんで」
「俺の恋人だけどな!」
「早く行ってくださーい、交通の邪魔ですよ。センセー」
「新田、おま……」
「雅嗣、家でね!」
二人の間に入って、追い払うようにバイバイと手を振る。
雅嗣は、言いかけていた言葉を飲み込んで「わかった、覚えておけよ」と捨て台詞を吐いて、車を発進させていく。
「愛されてるじゃん、めちゃくちゃに」
「あんな感じなんだな……知らなかった」
「二人してちょっと、引いてる?」
二人が顔を見合わせて、一瞬間を置いてから「いやー」と声を重ねた。
どこからどうみても、間違いなく引いてるじゃん。
バツが悪そうな顔をしてからユイは、ふふっと笑った。
「愛されててよかったね。あの頃からは想像できないくらい、ナミが楽しそうで本当に嬉しいよ」
しみじみと振り返りながら言うから、私も否定せずに頷く。
あんなに怒りと恐怖に飲み込まれていた日々が嘘みたいだ。
今でも、大きい声の男の子は苦手だけど。
「じゃあ、早く帰ってあげないとね」
「そーそー、三宮さん待ってるだろうし」
それでも、三人のペースでゆっくりと家路へと向かう。
雅嗣は、待ってるかもしれないけど。
私には私の人間関係がある。
私の時間全てが雅嗣のものにはできない。
いつも、ちょっとだけ不満そうだけど。
雅嗣の時間全てが私のものにならないことも、ちゃんと理解してる。
でも、できるだけ私を不安にさせないようにしてくれてるから、私も、できるだけ雅嗣に私の時間をあげたい。