ユイ……は、ダメだ。
 雅にいは仕事中……。
 掛ける相手が思いつかなくて、呼吸だけがはぁはぁと繰り返される。
 
 走ってる音が聞こえてスマホを握りしめたまま、口を塞ぐ。
 
 気づかないで、バレないで……
 呼吸も止めて、ただ、祈る。
 音は、どんどん遠ざかっていく。
 誰でもいい。
 誰か呼ばないと。
 
 スマホを確認すれば、押してしまっていたようで雅にいの声が微かに聞こえる。
 
「もしもし? ナミ?」
 
 耳に押し当てて、小声で答える。
 
「助けて」
「どうしたの? やばいやつ? 迎えにいくから動くなよ」
 
 雅にいの言葉に頷いて、涙を飲み込む。
 電話は切らずに雅にいは「すぐ行くからな」「大丈夫だからな」と声を掛け続けてくれる。
 
 安心して、その場に腰を下ろせば、目の前が、影で暗くなる。
 
「見つけた」
 
 顔をあげれば、トモヤ。
 私の腕を掴んで、無理やりに立たされる。
 拍子にスマホを落としてしまって、カタンと音を立てた。
 
 私の腕を掴んだまま、トモヤはスマホを拾い上げて通話を勝手に切り上げる。
 
「いい加減にしろよ」
「そっちがいい加減にしてよ!」
「誰に電話してたんだよ」
「関係ないでしょ」
「関係あるだろ、お前は俺のモノなんだから」
 
 言い返せば、言い返すほど、声は怒気をはらんでいく。
 
 ぐっと強まった力が手首を締め付けて、痛みに顔を歪めた。
 
 私はモノじゃない。
 それでも、否定の声すらもう出なかった。
 諦めよう。
 逃げることも、反撃することもできない。
 目をぎゅっと閉じて、顔だけを無理矢理背ける。
 
「やっと認めた?」
 
 近づいてくる鼻息だけを感じて、早くこの時間が過ぎ去ればいいのにと願う。
 
 暗闇の中で、いつまで経っても肌は触れない。
 締め付けられていた手首がブンっと引っ張られて、目を開ければ、目の前のトモヤが吹っ飛んでるところだった。
 
 パチパチと瞬きをしてれば、優しく抱きしめられる。
 雅にいの優しい匂いが体を包み込んでいく。
 
「雅にい……」
「大丈夫? 早く言えよ、元彼にストーカーされてたんだな」
「雅にい」
 
 うわぁんと子どものように声をあげて泣きながら、しがみつくように目の前の雅にいを抱きしめる。
 あたたかい体温が体に染み込んでいく。
 
 安心しきっていれば、涙はとめどなくこぼれ落ちて、雅にいのスーツにシミを作る。
「誰だよ、テメェっ!」
 
 雅にい越しに、怒った顔で立ち上がったトモヤが目に入る。
 
 雅にいは優しく優しく、私の頭を撫でてから小声で「車乗ってて」と車のカギを渡してくれた。
 
 こくんっと頷いて走って逃げれば、後ろからトモヤの怒鳴り声が聞こえる。
 
「ナミは俺のモノだろ! 邪魔すんなよ!」
「ナミはお前のモノなんかじゃねぇよ、クソガキが」

 最後に聞こえたのは、今まで聞いたこともない低い雅にいの怒鳴り声だった。


 
 雅にいのいつもの見慣れた車に乗り込もうとすれば、後ろのドアが開く。
 
 誰……!
 身構えれば、出てきたのは、ユイだった。
「ユイ……?」

 ユイが手を伸ばして、私の手を掴む。
 車に引っ張り込んだかと思えば、内側からカギを掛けた。
 
「ナミ、よかったぁあああ、ごめんね。一緒に帰ればよかった」
「どうしてユイがここにいるの?」
 
 私をぎゅっと抱きしめて、ユイの方が私より大きな声で泣く。
 私の背中を何度も何度も確かめるように、撫でながら、ユイが嗚咽を繰り返した。
 
 自分よりも泣くユイを見ていたら、気持ちが少しずつ落ち着いてきた。
 冷静になったせいか、体がガクガクと震えてくる。

 「ごめんね、ナミ」
「ユイは悪くないよ、私がトモヤを軽く見てたから……」
 
 顔を上げたユイにハンカチを渡せば、私の顔を拭った。
 
 涙でぐしゃぐしゃだった視界が、開けていく。
 
「ナミが帰ってる時間のはずなのに、何回メッセージ送っても既読にならなくて。慌てて裏門からの道を、探してたの。そしたら、三宮先生が車で現れて、乗れって」
「一緒に探しにきてくれたんだ……」
「三宮先生なんでしょ、ナミの幼なじみ」
 
 雅にいに聞いたのか、と思って頷く。
 答えは違ったらしく、ユイはぐしゃぐしゃの顔で笑う。
 
「やっぱり」
「カマかけたの?」
「ナミの顔見てたらわかるよ。だから、託したんだ。私は車で待ってるからって。大丈夫だよ、三宮先生ならきちんと終わらせてくれる」
「うん」
 
 息を飲み込んで、抱きしめてたユイから離れる。
 その代わり両手を繋いで、ユイと向き合ってるうちに、体の震えは止まった。
 
 落ち着いたのに気づいたユイが、ペットボトルを渡してくれる。
 
「お水飲んで。脱水なっちゃうから」
「ユイもだよ、そんなに泣いたんだから」
「へへ、そうだね」
 
 ごくんっと水を飲めば、自分が思っているよりもノドは乾いていたらしい。
 水が染み渡っていく感覚がして、一気に飲み干してしまう。
 
 空になったペットボトルを見せれば、ユイも飲み終わったようで、ふうっと一息ついた。
 
「ごめんね、私、ナミに言ってなかったことがあったの」
 
 体をガチガチに固めて次の言葉を待てば、ユイは言いづらそうに唇を噛み締めた。
 
「トモヤね、私にも告白してきたの。ナミと付き合い出してから」
「へ?」
「あの子と浮気する前の話」
 
 ユイから聞く衝撃の話に、あの時の不思議な空気感の理由はこれだったかと思う。
 でも、ユイが謝ることではないのに。
 
「でね、私はナミと付き合ってるんでしょ? どうしてそんなことするの、って聞いてたの……聞いてたのよ、トモヤが、おかしい考えを持ってること」
 
 私の両手を握ってるユイの手が、ぎゅうっと力強くなっていく。
 そのまま、ぷるぷるとユイの手も声も震え始めた。
 ユイは涙をこぼしながら、息を吸って吐いてを繰り返す。

「ナミなら、受け入れるからって。俺のこと好きだから受け入れない方がおかしい。むしろ喜ぶだろ、普通。友だちと一緒にデートできるんだぞ? って、言ってたの。何言ってるんだって思ったし、バカなの? って言ったけど、通じなかった。本気でそう思ってるような顔してた。だから、私が否定するたびに、不思議そうな顔でこっち見るの」
「ユイも怖かったんだよね、ごめんね」
「ナミに知らせたら、ナミが悲しむと思って、ずっと黙ってた。ごめんなさい、もっと早く言ってたら。もっと真剣に逃げられたかもしれない」

 ユイを強く抱きしめて背中をさする。
 私のためにユイはずっと、抱えてくれていた。
 トモヤへの恐怖よりも、ユイの優しさが心を埋めていく。

 あんなに怖かった気持ちが、嘘みたいに、ユイへの好きが溢れた。

 ガチャとドアが開く音がして、ユイを守るように抱きしめたまま、顔を上げる。
 そこにいたのは、雅にいだった。

 急に安心して、ふぅっと息を吐けば、ユイも顔を上げて雅にいを確認した。
 二人して、「はぁっ」と安心した声を同時に出して、抱きしめ合う。

「もう、現れないから安心しな」
「雅にいは、大丈夫?」
「あんなのには負けないから。まず、新田さんを送ってから、林さん送っていくから」

 雅にいは、取り繕うように先生の顔に戻って運転席に座る。
 シートベルトをしてから私たちにも「シートベルトちゃんと締めろよ」と指示した。

 運転しようと前を向いた雅にいを止める。

「ユイなら、大丈夫。気づいてるから」
「ん?」
「私も雅にいのこと。幼なじみなことも、私が信頼してることも」
「あぁ」

 一言だけ呟いてから、雅にいが後ろを振り返る。
 いつもより、一際優しい目で私をじいっと見つめて安心したように微笑んだ。