ドーナツ屋も、学校も、偶然で終わっていればどれほどよかっただろうか。
 ユイは、今日に限って「道場に寄るから」と先に帰ってしまった。
 
 窓の外にまた待つトモヤを見ると、ため息が漏れる。
 他の人を待ってるという理由で、何度も学校に現れるトモヤ。
 
 その度に、カフェや喫茶店に誘われる。
 家のことが、約束が、と断り続けて、もう何日目になったか数えてすらいない。
 
 初めはざわざわとしていた教室も、今では「また来てるね、あの人」という一言で終わるようになっていた。
 それでも、他校の人間が何日間も校門の前にいるというのは、視線を集めるようだ。
 
 放課後になるたびに、クラスメイトたちはちらりと窓の外を確認する。
 その度に、私はため息混じりの呼吸を吐きながら、逃げるように教室を後にした。
 
 いい加減に、裏門から逃げ続ける日々に、疲れてきた。
 大きいため息を吐きかけて、飲み込んでから教室を出る。
 
 そもそも、彼女? 付き合いそうな相手に勘違いされるとか、考えないのだろうか。
 どんな人なのか、結局毎回はぐらかされて聴けていない。
 
 人間関係がうまくいっていないとも言っていたから、友だちもいなくて私に聞いて欲しいのかもしれない。
 そんな彼に優しくできない私は、冷酷な人間なのかな。
 ちくんっと痛む罪悪感を押さえてあるけば、聞き覚えのある声。
 
「おー気をつけてなー」
 
 顔をあげれば、他の子にひらひらと手を振る雅にい。
 このタイミングでは、会いたくなかった。
 唇を噛み締めて、顔を背ける。
 こんな、優しくない私のことを見つけないで欲しかった。
 
 雅にいの前でだけでも、私は素直な良い子でいたいのに。
 でも、雅にいは私に気づいてしまったようで「林」と優しい声で私の名前を呼んだ。
 
「気をつけて帰れよ」
「うん……」
「この前から元気ないけど、大丈夫か?」
 
 あくまで先生と生徒。
 
 それなのに、いつものように優しく私の目を覗き込むから、甘えたくなってしまう。
 
 トモヤに会う、憂鬱が溢れ出そうになった。
 他の生徒がきゃはきゃはと笑い声をあげて、私たちの横を通り過ぎていく。
 
「大丈夫です」
 
 バレないように慌てて取り繕って、強がる。
 私の作り笑顔は、やっぱり雅にいには通用しないみたいだ。
 
 私の耳元で小声で囁く。
 
「帰ったら聞くから。まっすぐ帰れよ。新田、今日いないんだろ?」
「うん、ありがとうございます」
 
 耳に触れる声を意識しないように、こくんっと頷けば「またな」と背中をトンっと押された。
 
 背中の熱だけで立ち向かえる、そんな勇気が湧く。
 裏門からこっそりと出て、遠回りな道を歩く。
 
 いつの間にか、毎日の下校ルートになってしまった道。
 何度も通るうちに、猫がいるお家や、ツツジが咲いてる家を見つけた。
 
 キョロキョロと周りを見渡しながら、新しい発見を探す。
 そう簡単には見つからないか。
 
 不意に、コツン、コツン、と後ろから足音が聞こえた気がして、体が強張る。
 
 気づかれた? まさか。
 ここ数日、気づかれなかったんだもん。
 
 気にしないように歩きながら、ふらふらと余計な角を曲がる。
 家まで特定されたらたまったもんじゃない。
 
 それに……雅にいとのことがバレてほしくなかった。
 ぐるぐると色々な角を曲がりすぎて、気づけば、家への道に出ている。
 足音は聞こえていない気がする。
 
 やっぱり気のせいだったか、と自分に言い聞かせてそのまま帰ろうとすれば、にゅっと出てきた腕に掴まれて細い道に連れ込まれた。
 
「逃げてるよね?」
 
 背中側には塀。目の前にはトモヤ。
 逃げ場は横の細い道しかない。
 目だけで逃げ場を探せば、トモヤの声がゾッとするほど冷たくなっていく。
 
「逃げんなよ」
 
 触れてる腕から凍りつくように、体が固まる。
 逃げ出したくなって、やけに優しい笑顔から目を背けた。
 
「もう逃がさないって」
 
 はははっと笑い声をあげるから、耳を塞ぎたくなった。
 塀に押し付けられて、トモヤは私の手をより強く掴む。
 
「どうして逃げるんだよ」
 
 掠れたような、寂しそうな声に、私が悪かったな、と一瞬過ってしまった。
 
 ひょいっと軽々しく私を持ち上げて、トモヤが歩き始めた。
 肩に担ぐように私を乗せて、普通のように歩み続ける。
 
「待って、どこいくの」
「さぁ、どこだと思う?」
「なんで、私に会いに来るの。良い人いるんでしょ、勘違いされるよ、話なら聞くから」
 
 言い訳を並べても、トモヤは何も答えない。
 ひたすら流れる沈黙の中、ヒュウと喉の奥だけが鳴る。
 息が止まりそうだ。
 
 人が一人通れるような細い道ばかり選んで、トモヤは進んでいく。
 慣れてるはずの場所が、知らないところな気がしてきて不安が募る。
 
「浮気しても、ナミなら許してくれると俺は思ってたんだよ。だって、俺が好きなのはナミだし、ナミが好きなのは俺だろ? 浮気って言っても、浮気じゃないんだよ、ただ試したんだ。ナミなら揺らがないと思った」
「ねぇ、やめてよ、下ろしてって」
 
 勝手な言い分をツラツラと並べ立てて、私が何を言っても、まともに答えてくれない。
 
「おかしいよな、俺たち愛し合ってたのに。でも、俺は優しいから待ってたんだ。勘違いだったって、やっぱり俺が一番だって、ナミが謝ってくるの。学校も離れちゃったし、なかなか会えないから謝るタイミングがないのかって会いに来たのに、逃げるし」
 
「私たちもう別れてるじゃん。関係ないじゃん、下ろしてって」
 
「おかしいよな、おかしいって。俺たちは愛し合ってて、ナミには俺しかいないんだって。待つだけは、もうやめたんだ。素直になれって、俺のこと好きなんだから」
 
 何を言っても言葉が通じなくて、恐怖に涙が出てきた。
 日本語を話してるはずなのに、私の言葉は一ミリも届いていない。
 
 トモヤはまるで聞こえていないかのように、一人でぶつぶつと繰り返してる。
 ジタバタと手を動かしてみても、トモヤはびくともしない。
 
 見慣れた場所が見えてきて、どこに行こうとしていたのかわかってしまった。
 
「なぁ、ナミは俺が好きだよな」
「私はもう、トモヤのことは好きじゃない。好きじゃない! 好きな人がいるから答えられない!」
「嘘つかなくて良いって」
「嘘じゃない、帰して。お願いだから家に帰して、ね? 今なら」
 
 ユイと何度か訪れたトモヤの家がどんどん近づいてくる。
 
 あの頃は、家に行くだけでドキドキしていた。
 広い庭に、かわいいわんちゃん。
 優しそうなお母さんと、幸せな匂いのする一軒家。
 憧れていた光景が、今では真っ黒に塗りつぶされてるみたい。
 
 違う意味で心臓がバクバクとしてる。
 
「お願いだから下ろして、ね、一回、落ち着かせて」
 
 懇願すれば、トモヤはどさっと私を庭に下ろした。
 逃げようと思っていたのに、足がプルプルと震えて、立ち上がれない。
 
「俺の気を引くための嘘だったんだろ? わかってるから素直になれって」
 
 ジリジリと近づいて私の頬を撫でるトモヤの手に、ヒィッと小さい悲鳴が上がった。
 
 どうしてこんなことになったの。
 そもそも、私よりも、可愛い彼女を選んだのはトモヤなのに。
 
 唇が触れそうなくらい近くに、顔が寄ってきた。
 慌てて背ければ、頬をガシッと掴まれて正面を向かされる。
 
「まだ焦らすの?」
「違う! あんたなんか、大嫌い!」
 
 声を張り上げれば、トモヤの目が怒りで震えている。
 涙がぽつんっと一滴こぼれ落ちていく。
 泣きたくなんかない、負けたくなんかない。
 それでも、怖さから、目は勝手に涙をこぼす。
 
「あの時キスしなかったから、ずっと拗ねてんの?」
「しなくてよかったと心の底から今思ってる。いい加減にしてよ、ねぇ、ただの友達じゃん」
 
 ガンっと地面を蹴り飛ばして、土を巻き上げた。
 目に入りそうで、ぎゅっと瞑れば「ほら、やっぱりそうじゃん」と柔らかい声。
 
「キスしてあげるから、素直になれよ」
 
 どんどん近づいてくる顔に、嫌悪感しかなくて、吐き気を催した。
 
 こんなはずじゃなかった。
 どうしてこんなことになってるの。
 おかしい。
 震える足で、トモヤの足を蹴り上げる。
 ぽすんっと弱々しく当たった私の足を、嘲笑う。
 
「弱々しいなぁ、やっぱりナミは俺が守ってあげなきゃな」
 
 頬を掴んでいた手が離れたかと思えば、両腕を掴まれて庭に押し倒された。
 背中に小石が当たって、ちくんっと痛む。
 
「痛いよ、痛いって」
「悪いのはナミだろ? 強がって、嘘ついて、俺は素直なナミが好きだよ」
 
 頬に軽くキスをされて、背中を虫が這うように、気持ち悪さが登っていく。
 手を押し除けようとしても、強い力で押し返される。

 「やめて!」
 
 大声で叫んだつもりが、声は弱々しく庭に吸収されていく。
 トモヤの両親がいないかと、家の方に目を向けても、人影は見えない。
 
「やめてって! いい加減にして!」
「はぁ……いつになったら素直になるんだよ。ちゃんと教育しなきゃダメか」
 
 頬を味わうように舐められて、ぞくりっと体が震える。
 
 自由な足をバタバタと動かせば、スネにヒットしたようでよろけてトモヤの体勢が崩れた。
 
 思い切り隣に突き飛ばして、震える足で走り出す。
 どこに逃げればいいかも、どうすればいいかもわからない。
 それでも、スマホを握りしめてがむしゃらに走る。
 
 近くのアパートの物置が目に入った。
 来た方向から見えないようにしゃがんで身を潜めて、スマホを開く。