初めての一人暮らし――実際には居候暮らしだけど――が始まるんだ。
 胸が少しだけドキドキとする。
 
 同居する相手がいるとは言え、初めて家族と離れて暮らすことには変わりない。
 
「これ、ナミでも作れそうなもの、まとめたから」
 
 お母さんが手渡してくれたのは、レシピと表紙に書かれたノートだった。
 両親なりに私のことを心配してくれているらしい。
 私は雅にいのことを置いて開けば、どちらかといえば、楽しみの方が強い。
 
「うん、ありがと」
「じゃあ、雅嗣くん、よろしくね!」
「いってらっしゃい!」
 
 お母さんとお父さんを玄関まで見送れば、二人して手を繋いで歩いて行く。そして、呼んでいたタクシーに乗り込む。
 
 二人に大きく手を振って、振り返れば雅にいが微笑んでいた。
 あまりまっすぐ顔が見れなくて、ぱっと目線をそらす。
 
「今日は、ナミの歓迎会だね。相変わらずオムライスが好きなの?」
 
 雅にいの中では、私は小さい頃のまま止まっているみたいだ。
 それもそうか、雅にいが遠くの高校に入学して寮生活になった頃くらいから会っていない。
 
 えーっと、あの頃は私が小学生になるくらいだから、九年前?
 黙って指折り数えていたら、雅にいはしゃがみこんで私の顔を覗き込む。
 
「ん? どした?」
「どれくらい、会ってないか、数えてた、ました」
 
 大人になった雅にいに、慣れない。つい、変な敬語になってしまった。
 
「そんなに会ってないわけじゃないけどね」
 
 雅にいがぽそっと呟いた言葉が聞こえたけど、記憶にない。
 あまりにも会わなさすぎて、誰かと勘違いしてるのかもしれない。
 
 うん、多分そうだ。
 あの頃は九歳離れている年齢も気にせず、「雅にいは、子供役ね! はい、オムライスですよー」なんてやってたんだけど。
 
 あの頃はオムライス好きだったな。今も、好きだけど。
 
「で、オムライスがいい?」
「オムライス、作ってくれるんですか」
「敬語もやめようよ、あの頃みたいに普通に話してよ、ナミ」
 
 そう言われても、お父さん以外の大人の男の人と話したことがあまりないから緊張して言葉は変になる。
 
「う、ん、はい」
「うんでいいって」
 
 雅にいは楽しそうに笑ってからキッチンへと向かっていく。
 ただ黙って待ってるのも申し訳なくて、私も後ろをついてくる。
 
「手伝ってくれんの?」
「少しくらいなら」
「一緒に作るなんて、新婚さんみたいだね」
 
 おままごとの中で、二人で料理を作る新婚をやったこともあったなと思いながら、キッチンに入る。
 キッチンの雰囲気は、昔来てた時そのままで胸を撫でおろす。
 
 おばちゃんがいつも換気扇の下で料理をしていて、我が家よりも大きい冷蔵庫には、食材がみっしりと詰まっていた。
 
 冷蔵庫を見つめていれば、雅にいが照れたように冷蔵庫を開く。
 
「まぁ、オムライスもう好きじゃなくても、オムライスくらいしか作れないんだけど」
 
 冷蔵庫の中には十個入りの卵と、ベーコン、調味料類。あと、ミネラルウォーターと牛乳しか入っていない。
 雅にいが卵を取り出して、冷蔵庫をパタンと閉める。
 
「一人だと料理とかはあんましなくてさ、でも、ナミと同棲するならするようにしなきゃな」
 
 同棲……? 言い間違いだろう、と聞き流して、シンクで手を洗う。
 シンクに置かれているタオルは、シックな感じの黒で、昔とは違う。
 
 リビングや玄関と同じで、きっと雅にい好みにしたんだろう。
 小物や花で飾られていたこの家は、いつのまにかモノトーンの家具で揃えられていたから。
 
 タオルで手を拭きながら「何したらいいです、いい?」と言い直せば、満足そうにうんうんと雅にいがうなずいて、ボウルを渡された。
 
「俺、ケチャップライス作っておくから混ぜてて」
 
 あまりにも子ども向けなお手伝いの内容に、戸惑う。
 でも、他人のキッチンで勝手にはできない。
 
 料理を毎日するほどではないが、週に一、二度は私が家族の夕飯を作ってるくらいはできるんだけどな。
 お箸を渡されて受け取れば、指が触れた。
 雅にいがパッと手を離す。
 
「悪い」
「え、いや、ううん?」
 
 女の人に慣れていないのかもしれない。
 警戒心はいつのまにか薄れていて、昔の関係性を思い出していた。
 
 耳まで真っ赤な雅にいに、くすっと笑い声が漏れてしまう。
 男、男、と思っていたけど、雅にいなら、大丈夫かも。
 
「照れちゃってるー!」
「悪い悪い、ほら、まぜてまぜて」
 
 ごまかすようにまな板を取り出して、いつのまにか取り出していた玉ねぎを切り始める。
 私は大人しく隣で卵をかき混ぜながら、雅にいの手つきを盗み見る。
 
 料理をあまり作らないと言っていたわりには、均等にみじん切りされているし、切ってる音が慣れてる人の音だった。
 
「そんな見つめられたら手切っちゃいそうなんだけど」

  見つめているのがバレてるとも思わなかったから、顔を上げて謝れば、目がばちんっと合う。
 ニコッと目が合うたびに笑われるから、その度に胸がどきんっとうるさく鳴った。
 
「卵混ぜ終わったね、じゃあ、あとは待っててください」
「見ててもいい?」
「えー?」
「ダメ?」
「全然いいよ、あ、ベーコンとって」
 
 冷蔵庫を開けて、ベーコンを取り出す。横から手を差し出す雅にいに、「ん」と渡して冷蔵庫を閉める。
 
 あんなに緊張していたのに、阿吽の呼吸のようになってきた。
 
 幼なじみってすごいな。
 しばらく会ってなくても、妙な絆があるみたい。
 
「あーオムライスだけも、なんだよね。どうしよう」
「じゃあ、オニオンスープでも作る? コンソメあるよね?」
「え、作ってくれんの? ナミの手料理」
 
 わざとらしい言い回しに、「作っちゃうよー」とふざけながら包丁を受け取る。
 手元に視線を感じて、ぴたりと止まってしまう。
 
「あんまり、見ないでください!」
「お返し」
 
 にひひっと笑って雅にいは、視線をフライパンに戻す。
 
 ひょいひょいっと軽々しく振って、ケチャップライスを混ぜていく。
 やっぱり、料理慣れしてる。
 雅にいが、シンク下の棚を指す。
 
「お鍋は、下に入ってるから」
 
 鍋は数種類あって、一番小さいやつを取り出した。
 空いてるコンロを借りようと近づけば、肩が触れそうなくらい近い。
 
 いくら三口コンロとはいえ、二人でコンロの前に立つとこうなってしまう。
 スープを作り始めれば雅にいが壁際にグッと寄って、スペースを開けてくれるから近づく。
 
 二人の手がぶつかって鍋とかフライパンを、ひっくり返すことだけは避けなくちゃ。
 壁際の調味料棚にフライパンの上から手を伸ばせば、パシッと掴まれて止められた。
 
「危ないだろ」
「これくらい大丈夫だって」
「火傷したらどうすんだよ、塩胡椒とコンソメでい?」
「なんか、過保護〜」
 
 ふざけたように答えれば、塩胡椒とコンソメの瓶を片手で掴んで、私側に置く。
 自分は鍋の上をひょいっと手を伸ばして。
 
「あたりまえだろ」
「女の子だからとか時代錯誤ですよ、雅にい」
「ちげーよ、ナミだから」
 
 真剣そうな目で言われて、また、胸が痛い。
 びっくりしていれば、「ご両親から預かってるんだからケガなんかさせらんねって」と小声が聞こえた。
 男慣れしてないのは、私の方か。