【男子棟内・廊下】

出来上がったクッキーを顧問の野口に届けようと職員室へ向かっていた亜乃の前に、現れた律。

想定外の出来事にドン底に突き落とされてしまい、亜乃は完全に動きを停止している。

亜乃(は、はわわわわわわわ………っっ)

硬直している亜乃とは対照的に、律は当たり前みたいに亜乃の方へ足を進めてくる。

近づいてゆく二人の距離。

亜乃(あ、あああああああああ………っっっ)

亜乃は来ないで来ないで、と心の中で叫び続ける。
嫌だ嫌だ嫌だ、という感情で心が支配され、律に絡まれそうになるのを拒否するべく、必死で声を上げる。

亜乃「い、いや、職員室に用が!用があって!そ、それじゃあまた!部活頑張って!」

トーレニングウェア姿の律にそう言い残して、すぐさまその場を立ち去ろうとする亜乃。

亜乃(やだ、もう近寄らないで!)

こんな状況もしファンの子に見られたらまた大変な事になる、関わらないでお願い!と律に背を向けて足を職員室の方へ向けて動かし出す。

男子棟を出て渡り廊下をずんずんと早歩きで進みだしたのと同時に、

律「あ、おい!」

律が通常よりも少し大きい声を出して後を追ってくる。

亜乃(やだやだやだやだやだ何で追ってくるのー!?)

律の声を聞かなかった事にして、半泣きで渡り廊下を進み続ける亜乃。
それを追ってくる律。
必死に足を進めるが、何せ身長差、体格差、性別差があるものですぐさま背後へと追いつかれてしまう。

律「ちょっと待て……って!」

ぐっ、と掴まれる手首。
前進していた動きをきゅっと止められる。
そのまま力強い腕と力で律の方へ身体を向けさせられ、向き合う形に。
1メートル以内にある、律の整った顔。上昇する心拍数。

亜乃(ひいいいいっっっいやーっやめてえーっ)

ひたすら嫌、やめて、という単語だけがぐるぐる頭の中を回っている。
恐怖のあまり声も出せなくなり、つい、と顔をそむける。

律「何で逃げんの?」

亜乃を捕らえた律が短く訊ねてくる。

亜乃「い、いや、別に逃げた訳じゃ……」
律「いや思いっきり逃げてたけど。誰がどう見ても」

捕まえていた手首の拘束を解きながらも、亜乃の嘘を一言で潰す律。

律「何かしたっけ俺?」

少しだけ責めるような口調で亜乃へ言い放つ。
疑問形にはなってるものの、全く心当たりがないですけど、と暗に言っている。

亜乃「な、何も……」

確かに律自身には最初に『撒きダシ』にされた以外何もされてないので、他には特に何もされていないとしか言いようがない。が、しかし。

亜乃(でも、今はこれだけで問題が……っ。あなたが一緒にいるだけで問題がっ……!!)

お願い自分の立場と人気というものをもっと分かって欲しいと願う亜乃だったが、律は全く理解していない様子。

亜乃(理解していないの?それとも気にしていないの?どっち??――いや、もうどっちでもいい、どっちにしてもとにかく今は自分から離れて欲しい……!!)

亜乃は勇気を振り絞って言葉を発する。

亜乃「あの、あんまりその、平良君と一緒にいたりする所、私、見られたくないから」

緊張のあまり、カタコトじみた発言になる。

亜乃「ほら、周りに変な誤解されたりとかしたら平良君だってイヤでしょ?困るでしょ?」

必死に訴えかける亜乃。
律は無言で亜乃の言葉を聞いている。

亜乃「昨日、ファンの人達をまくのに協力したお礼なら、ちゃんとしてもらったし」

亜乃がそこまで言った瞬間、険しかった律の顔が緩んでいく。そして。

律「ああ、あれ……っ」

口元に掌を当てた律がくくくっ、こらえきれない笑みをこぼす。

律「盛大にかぶったもんな、あれ」

律の脳内に蘇っているのは、亜乃がミネラルウォーターを思いっきり制服にぶちまけた、あの昨日の出来事。

亜乃(そ、そこまで笑う事? 確かにちょっと、鈍かったかもしれないけど)

想像以上に盛大にツボっている律に亜乃は少しだけ困惑するが、まあいい、と自分に言い聞かせる。

亜乃「と、とにかく。こんな所見られたらお互いの為にならないし、ね?――それじゃ」

言うだけ言い、手を振ってその場を離れようとする亜乃。

律「って、おい!」

しかし、再び律が声を上げて亜乃の手首をぱしりとつかんでくる。
また逃れられなくなった亜乃。

亜乃(もう、何――!?)

逃走失敗した亜乃に向かって、律が言ってくる。

律「じゃあ、見えなければいい?」

短い一言と共に、一段階ギアを上げた力にぐっと引かれる亜乃の手首。
すぐ傍らに律がしゃがんだと分かった次の瞬間には、亜乃もその力に誘導されるがままに膝を折って律のすぐ横にすとんとおさまって座る形に。
つまり、並んで渡り廊下の上に隠れ座り込んだ状態。

律「――これでいいだろ。ちょうどあそこからは見えないし」

体育館の方を眺める律。

亜乃(う、うわあああっっっ)

大接近状態に心臓バクバクの亜乃。

亜乃「待って、ファンの子がいつ来ちゃうか分からない!」
律「大声でそうやって叫んでる方が見つかる可能性高くない?」

冷静な律の指摘にうっ、と口を閉ざす閉ざす亜乃。
確かにそうで、こうなったら黙っているしかないと判断。
そして数秒の沈黙の後、亜乃が静かに話し出す。

亜乃「あの……何で追っかけて来たの?」

少し落ち着くとそもそもの疑問が再び湧き上がって来て律へ訊く。
問われた律は一瞬ぽかんとしたような表情を浮かべる。
その後うーんと上空を見ながら考える素振りを見せて。

律「……何か、逃げたから。今休憩中だし」

結論を言う律。

亜乃「な、何それ……」

意味が分からない亜乃は納得出来ずにそう言うだけで精一杯。
昨日といい、どうしてこうも都合よく休憩中にバッティングしてしまうんだ、と自分の運命を呪う。

律「普通に気になるでしょ? 自分の顔見るなり逃げられたりしたら」

何なの?ってなると、律は淡々と語っていく。

亜乃(た、確かにそうかも……)

冷静に律の立場に立って考えると、そう思っても仕方ない部分はあるかも……と考え始める亜乃。

亜乃「悪気はなかったの全然!ただ本当にファンの人達とゴタゴタになっちゃいそうだったから、それが嫌だっただけで……」

亜乃の言葉に、律が顔を少し険しくする。

律「何かやっぱり面倒な事になってるの?」

続けて、問い詰めるような感じの質問。

亜乃「いや、それは、だから……特に、今の所何も起こっては無いけど」

ごにょごにょと亜乃は口ごもる。

律「ふーん」

納得いかない、という感じの律の反応に亜乃が気持ちを伝えようとする。

亜乃「で、でもだからこの状況見られたら、これからまずくなってしまう可能性があって、その」

律「………」

無言で亜乃の言葉を聞いている律。

亜乃「あの……は、放して」

律に握られたままの腕を、亜乃は目で示す。
指摘されて初めてそれに気付きようやく亜乃の手を放して、律はがしがしと頭を搔く。
また流れる沈黙。

亜乃(き、気まずい……)

律の考えが全く読めない上会話も続かず、亜乃はすぐにでもこの場を立ち去りたい気分になっている。
しかも、ファンの人達に見つかったりしたらという不安のオマケで付き。
どうやったらこの場から逃れられるかだけを考えている。

律「――それ。何?」

沈黙を破って、声をかけてくる律。
目線だけで示された位置を辿り、それが自分の手の中にあるクッキーであると分かった亜乃は答える。

亜乃「あ、調理研究会で今作ったクッキーだけど」

クッキーの入った袋を軽く上げて見せる亜乃。
そういえば野口にこれを渡しに行かなければいけなかったのだと思い出す。

亜乃(そ、そうだ、行かなきゃ)

油を売っている場合じゃないと亜乃は立ち上がろうした……が、律の視線が思いのほか情熱的にクッキーに注がれている。

亜乃(な、何?)

決してこのまま立ち去れないような、何かを訊ねられるのを待っているこの感じは一体?と戸惑う。

が、すぐにもしかしたら……とある予測が立って、亜乃は律に向かって声を掛けてみる。

亜乃「た、食べる?」

その言葉に律がこくりと頷く。
表情は変わらないが、心なしか嬉しそうな雰囲気をかもし出していて、やっぱりそれを望んでいたのかと亜乃は袋を縛っていたワイヤータイをくるくると回しながら外していく。

亜乃(ごめんなさい野口先生……後で私の分のをお渡ししますので)

こんな待ち焦がれる様な目を向けられたらとても無視なんて出来ないと野口に心の中で謝罪を入れながら袋を開ける。
ふんわりと漂ってくる、甘いクッキーの香り。

亜乃「どうぞ……」

開いた袋の口を律の方に差し出す亜乃。

律「ありがと」

礼を言いながら、律が袋の中からクッキーを一つつまんでぱくり、と口に入れる。
どうだろう、このスポットライトを浴びる側の人に私が作った物なんて口に合うのだろうかと一抹の不安を抱える亜乃。
緊張の面持ちで律の反応を待つ。

律「……うまい」

返って来たのは、思っていたよりずっと素直で喜ばしい感想だった。

亜乃「……本当!?」

それを聞いた途端、ぱっと亜乃の表情が明るくなる。
ついさっきまで自分の前でオドオドしていただけの人物と同じ人物だとは思えない、と目を丸くする律。

亜乃「今回のは、本当に自信作なの!材料も高めの使ってて、アーモンドもかなり練りこんだり混ぜ込んだり上にも奮発して飾ったり!」

律の感情の動きにはまるで気付かないまま、嬉しそうに語り続ける亜乃。

亜乃「うちは研究会だから、なかなか予算も厳しくて。こういう奮発したもの、滅多に作れないから」

ふふふふっ、と堪えきれない笑みを零す亜乃。
そこまで語って、はたと我に返り、律が呆けたような表情でいるのに気付く。

亜乃「ご、ごめん……」

自分ばかりが話していたと自覚して黙る亜乃。

律「いーや、全然」

律が微笑む。

亜乃(うわ……っ)

やっぱりカッコいい、ずるい!と顔を赤くする亜乃。
笑顔向けられる度こんなになってたら心臓持たない……と俯く。

律「もう一個貰っていい?」

律がそんな亜乃に追い打ちをかけるように話かけてくる。

亜乃「どうぞ……」

希望されるまま、クッキーの袋を差し出す亜乃。
律の指がまた一つクッキーをつまみ上げる。
そのまま口の中に運ばれていくクッキー。

律「食べれば?あんたも」

律が亜乃にそう語りかけて来る。

亜乃「あ、う、うん……」

そもそもこれは自分のものなんだけど……正確には野口先生のものになるはずの物だったんだけど……とかすかな違和感を覚えながらも、勧められるまま亜乃もクッキーを一つつまんで口に運ぶ。

亜乃(うん、美味しい)

味見で一度食べてはいたものの、改めて食べてみて再実感、仕上がりに大満足する。

律「……名前」

不意に、隣に座っているの律がぽつりと発する。
それだけでは言葉の真意が掴めず、何?といった感じの顔をする亜乃。

律「俺、平良律っていうんだけど。――名前、何て言うの?」

自己紹介の後で律にそう訊かれて、亜乃はの心臓がまた少しだけドキリと跳ねる。

亜乃「江宮、亜乃……」

ポツリと名前を明かす亜乃。

律「よくここ、通ってるよね。この渡り廊下。江宮って」

律に言われた言葉に、えっ?となる。

亜乃「ど、どうして知ってるの?」

驚きで目を丸くする亜乃。

律「いや、だってほぼ毎日じゃん。普通に覚える」

当然のように言う律に、亜乃は見られてた!?と動揺。

亜乃「う、嘘っ……!!」

混乱した気持ちが否定の言葉になって現れてしまう。

律「いや、何で。覚えるって」

重ねて律が言う。

亜乃「だ、だって私、私は普通の人だし」

まさかスポットライト浴びる筆頭とも言える律に存在を認識されているとは、といった思いで亜乃は主張する。

律「何だよそれ」

再び笑う律。
幾度か見せられる笑顔に、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じる亜乃。

亜乃(……あ、そうだ)

落ち着きが取り戻せた事で、そういえば、といった感じで亜乃はもう一つ重要な任務があった事を思い出す。

ごぞごそとポケットの中に手を入れて、中に入っていたキーホルダーを取り出す。

亜乃「あ、これ……」

掌に載せて律にそれを見せる亜乃。

亜乃「昨日、拾ったんだけど。――もしかして、平良くんの?」

律は見せられたキーホルダーを目にした途端、

律「――それ、探してた。あの時落としてたんだな」

安堵と喜びの表情を浮かべる律。

亜乃「良かった、もしかしたら大事な物かと思って」

差し出されてきた律の手の上に、亜乃はキーホルダーを乗せて渡す。

律「去年の夏、インターハイ行った所で先輩に買ってもらったんだよね。頑張ってウィンターも行けって」

亜乃「ウィンター?」

バスケに興味のない亜乃は意味が理解出来ない。

律「ウィンターカップ。高校バスケの冬の全国大会」

キーホルダーを指でつまんで眺めながら言う律。

律「結局、県予選で負けたから行けなくてさ。引退した先輩に何か今も申し訳ないって気持ちあって」

感慨深げなその表情に、亜乃も思わず聞き入ってしまう。

亜乃(全、国……)

話が大きすぎて亜乃にはいまいちピンと来ない。
そんな戦いをしている人が今目の前にいるという事が、信じられない気持ちでしかない。

律「だから今年は絶対行きたいんだよね。最後の年だし」

ぎゅ、とキーホルダーを握りしめた後、羽織っていたスポーツウェアのポケットの中に入れる。
その後でちょいちょいと、またクッキーの入っている袋を指で示す。

律のアクションに促されて、亜乃は再びその袋の口を律の方へ向ける。
遠慮なく手を入れて一つ摘み、食べる律。

律「あー、マジで美味い」

律が呟く。

亜乃「気に入ってくれた?」

とても満足そうに食べてくれる律に亜乃は訊く。

律「うん」

こくり、と首を縦に振る律。その後で。

律「――好き」

亜乃の方を見て、視線をしっかり合わせて、微笑みと共に律が思わぬ一言を告げる。

亜乃(え、えええええ……っっっ)

今の言葉は!?今の言葉って!?と頭がパニックになる亜乃。

亜乃(く、クッキーだよね!?クッキーが、って事よね!?今の)

普通に考えてそうだよね、そうだ、冷静になれ、と自分に言い聞かせる亜乃。

亜乃(誤解されるってば!!――こんな事言う人なの?この人って)

初対面の時とどんどん変わってゆく印象に、対応が出来ないといった感じ。

律は何事もなかったかのようにまた一つ、クッキーを口に運んでいる。

亜乃(何か、よく分からない……)

振り回されっ放しの感情に亜乃の方だけがあたふたしている状態。
その時。

昭「――あれ?江宮」

聞き覚えのある声がして、反応する亜乃。

昭「何してんの?」

声を掛けて近付いて来ているのは、昭。
隣に凛も一緒に並んでいて、ひらひらと亜乃に手を振ってくる。

亜乃「磯谷」

昭の存在を認識して顔を上げる亜乃。
凛にも手を振り返す。

亜乃「磯谷は?」

尋ねてきた磯谷&凛ペアに、質問で返す亜乃。

昭「今、会議終わったとこ」

短く亜乃の問にそう返して、昭が今度は律の方に視線を送る。
律の方もじっ、と昭に視線を返す。

昭「――返した?」

そして、亜乃に向かってそう訊いてくる昭。
一瞬何の事か分からなかったものの、律が言っているのがキーホルダーの事だと理解した後告げる。

亜乃「あ、うん。今返した」

亜乃がそう答えて、律の方に目を向ける。
律は言葉を発さず、無表情のまま。

昭「おー、ミッションクリアじゃん。おめでと」

昭がそう告げる。

昭「さっきあんだけ騒いでたクセになー」

調理室での事を持ち出されて、亜乃は少しバツが悪くなる。

亜乃「た、たまたま会えたから!それで返せただけだから!」

必死で言い返す亜乃。

昭「簡単に人頼みするなよ頼るなよ」
亜乃「う、うう~っ……」

昭にダメ押しに詰められて、体育座りで膝に顔をうずめる。

亜乃「何でそこまで言われなきゃいけないの……!!」

もはや感情だけで反論する亜乃。
それを軽く笑い飛ばしながら眺める昭がすっ、と律に視線を送る。
その視線を真正面から受け、律も視線を返す。

昭「ていうかお前、俺にも返さなきゃいけないモノあるだろ」

改めてすっぱりと昭が亜乃の方を見て告げる。

昭「三日前に貸した現国のノートいい加減返せ、今すぐ返せ」

昭にそう言われてはっ、となる亜乃。

亜乃「そ、そうだったごめん、忘れてた」

ぱっぱっ、とスカートを払って整えながら、亜乃は立ち上がる。

昭「平気で忘れるな。お前マジで俺に対する扱いぞんざいすぎ」

亜乃に苦言を呈し続ける昭。

亜乃「ごめんってば!」

もう全面降伏の形で亜乃は昭の発言に従う。
じっ、とその一連の流れと亜乃の姿を律は見つめている。
それに気付いた亜乃、胸に抱えていたクッキーを見て、

亜乃「……これ、いる?」

と律に訊く。
こくりと首を縦に振った律に、亜乃ははいとクッキーの袋を渡す。

律「サンキュ」

それを受け取った律は一言呟く。
その光景をじっと見ている昭。
更にその昭に、隣でちらりと視線を送っている凛。

亜乃「じ、じゃあね」

亜乃は座り込んでいる律にそう告げる。

律「………ああ」

片手を上げて応えた律を置いて、その場を去っていく亜乃達三人。
その亜乃達の後ろ姿をクッキー片手に見つめている律。

亜乃達が消えた後で律の耳に聞こえてくるのは屋外で活動をしている運動部の声だけで、しん、とした空気が渡り廊下を包んでいる。