私立聖夢学園の理事長、柏崎 百合恵は、先生方との会議を終え、学園の一角にある自分の部屋へと戻って来た。
 扉を開けて中へ入ると、ため息と共に革張りの長椅子へ腰かけようとし、そこで死んだように動かなくなっている人の姿を目に留め、悲鳴を上げて飛び上がった。
 しかし、落ち着いてよく見てみると、それは死体ではなく、姪の柏崎 紫だった。
 長椅子の上で仰向けに寝そべり、開いたままの本を顔の上に乗せている。

「ちょっと、居るなら居るって言いなさいよ!
 誰もいないと思って驚いたじゃないっ。
 寿命が3日は縮んだわ」

 百合恵が胸を押さえて深呼吸する。
 しかし、紫は、長椅子に寝そべったままびくともしない。

「……どうしたの?
 あんたが落ち込んでるなんて珍しいじゃない。
 奏也くんと喧嘩でもした?」

 百合恵は、紫の顔の上に置かれている本に視線を落とした。
 本の表紙には、『嵐が丘』と書かれてある。

「……紫は、夢を見すぎなのよ。
 いい加減、現実を見なさい。
 いつまでもフィクションの世界に浸っていると、脳みそ溶けちゃうわよ」

 そう言って、百合恵は、本を奪い、紫の額を軽く小突いた。
 いたっ、と額を擦りながら紫が渋々身を起こす。

「⋯⋯伯母さんは、夢を見なさすぎなのよ。
 そんなんだから、五十過ぎても結婚出来ないんだわ」
「まだ四十代よっ」

 百合恵は、引きつった笑みを浮かべながら本を机の上に置いた。

「そういうのをね、余計なお世話って言うのよ。
 私が結婚していないのは、別に結婚できないってわけじゃないのよ。
 ただ、私のお眼鏡に適う男がいないってだけで。
 全く、世の中ロクな男がいないんだから」
「………………奏也は違うもん」
「じゃあ、とっととその奏也くんのとこへ行って、謝ってきなさい。
 どうせあなたが変な意地を張って、一方的に怒ってるだけでしょ」
「………………」

 無言でいるところを見ると図星だろう。
 そう思った百合恵は、ため息をつく。
 弟の娘である紫は、何故か実の母よりも自分によく懐いている。
 これまで何度も奏也と喧嘩をしては、自分のところへ助けを求めるようにやって来るのだ。
 ただ、今まで喧嘩の理由を聞いた中で、紫が間違っていなかったことなど一度もない。

(まぁ、話は、先生方から聞いて大体知っているけど。
 今回のことは、紫にとって良い教訓になるでしょ。
 全く、一体誰に似たのかしら⋯⋯)

 我儘で自己中心的で、素直になれない気の強い紫を百合恵は、何故か嫌いになれない。
 若い頃の自分を見ているようで、むしろ心配している。

「本当に大切なら、素直になりな。
 じゃないと⋯⋯私みたいになるわよ」

 それは嫌だなぁ、と本気で嫌そうに呟く紫を百合恵は、無理やり部屋から追い出した。

 学園で唯一の逃げ場である避難所から追い出された紫は、しばらく居場所を求めて構内を彷徨っていたが、朝から顔を合わせていない奏也が気になり、結局、教室へと足を向けた。
 いつも通りの態度で接しよう、と紫が胸を張って奏也のクラスを覗いた時、そこに奏也の姿はなかった。
 黒板に書かれた時間割を見る限り、移動教室というわけではなさそうだ。
 紫は、目に留まった男子生徒を片っ端から捕まえて奏也の行方を尋ねた。
 すると、どうやら空城 翼と一緒に教室を出て行ったきり、戻っていないことが判った。
 それを聞いた紫の顔がかっと赤くなる。
 よりにもよって、〝悪役令嬢〟の天敵である〝聖女〟と一緒だなんて、嫌な予感しかしない。
 もうすぐ授業が始まるので、ここで待っていれば二人に会えるだろうが、それまでじっと待っていることなど紫には出来そうになかった。
 紫は、教室を飛び出すと、二人が居そうな場所を探し回った。
 今までの経験から、男女が二人きりになれそうな場所は見当がつく。
 真っ先に思い浮かんだのは、新校舎2階にあるステンドグラス前の渡り廊下だ。
 走ってそこへ向かったが、誰の姿もいない。

(どこに⋯⋯)

 紫が周囲に視線を巡らせた時、1階の中庭から楽しそうな男女の笑い声が聞こえて来た。
 奏也と翼だ。
 二人が仲良く笑い合っている姿を見て、紫の頭に血がのぼる。

「奏也!!」

 紫が大声で叫ぶと、二人が足を止めて振り返った。
 こちらを見上げた奏也の目が紫を見つけ、驚きに見開かれる。

「紫⋯⋯?」

 その時、ふっと何かに勝ち誇ったような笑みを浮かべた翼と目が合った。
 紫は、嫌な予感がした。

「奏也くん」

 呼ばれた奏也が翼の方を向くと、二人の顔が急速に近付いていった。
 紫の居る場所から見えたのは、奏也の後頭部と、目を閉じた翼の顔。
 何をしているのか、一目瞭然だった。
 奏也と翼がキスしている。

 紫は、さっと血の気がひく音を聞いた。
 驚きとショックで声も出なかった。
 足元がぐにゃりと揺れて、立っていられない。
 思わずその場にしゃがみこむと、手すりに隠れて二人の姿が見えなくなった。

(うそでしょ⋯⋯奏也⋯⋯⋯⋯)

 呆然とした表情のまま、紫の目から涙が零れ落ちる。
 胸が引き裂かれそうなほど痛い。
 信じたくない気持ちでいっぱいだったが、今見た光景が目に貼り付いて消えてくれず、それが事実であることを告げていた。
 紫は、授業の開始を告げる鐘が鳴っていることにも気が付かず、しばらくそのままそこに座り込んでいた。

 長い時間が経った気がした。
 実際は、ほんの数分だったが、
 気が付くと、奏也が目の前にいて、困った顔でこちらを見下ろしている。
 紫が顔を上げると、奏也がしゃがみ、紫の頬を流れている涙を拭おうと手を伸ばした。
 紫は、反射的に、その手を払い除けた。

「⋯⋯そんなに、あの女がいいなら、婚約を破棄してあげてもいいわよ」

 紫の声は、震えていて、いつもの自信に満ち溢れたものとは別人のようだった。
 それを聞いた奏也は、何故かひどく傷ついた顔をした。

「俺、お前のことがわからないよ」

 そう言って奏也は、立ち上がると、紫に背を向け、一度も振り返ることなく立ち去って行った。


 ***


 紫が昇降口で靴を履き替えるため、自分の下駄箱の扉を開けると、靴の上に白い封筒が置かれていた。
 差出人の名前はなく、宛名には『柏崎 紫へ』と書かれている。
 怪しみながらも封を開けると、中には、次のように書かれていた。

『お前と富瀬 奏也の秘密を知っている。
 バラされたくなければ、放課後、屋上まで来い。』

 紫は、持っていた封筒を握りしめた。
 思い当たることは、一つしかない。
 しかし、一体誰がこんなことをしたのだろう。
 無視しようかとも思ったが、やはり気になって、放課後、屋上へと向かうことにした。
 こんなことをする奴の顔を見て確かめないと、紫の気が済まない。