紫の不安は当たった。
 空城 翼は、転校初日から早々にクラスメイトたちと打ち解け、クラスの違う同級生の男子生徒たちの関心を引いた。
 転校生という肩書きだけでも皆の関心を引くには充分であるが、それ以上に、彼女は、富裕層の子息子女が通う私立聖夢学園では見ない珍しいタイプの女子生徒だった。

 まず、特別容姿に優れているというわけではないのに、親しみやすい雰囲気を身にまとっており、誰とでも分け隔てなく接する振舞いが皆の好感を買った。
 この学園では、誰もが自分こそ一番に注目されるべきだと信じて疑わない生徒たちで溢れ返っているのに、彼女は、そんな皆の自尊心を巧みに操り、懐へ入り込む術に長けていた。
 特別謙るわけでも偉そうな態度をとることもなく、彼女は常に中立でいた。
 そして、何故か不思議なことに、彼女が言うことこそが真実だと誰もが疑わないでいるようだった。
 それは、この学園に不思議な魔法でもかけられたかのように、空城 翼は、あっという間に、学園のヒロインの座に収まったのだ。

 そのことに一際大きな貢献を果たしたのは、柏崎 紫、本人だろう。
 彼女にその気はなかったであろうが、それは、なるべくしてなった、としか言いようがない。

 いつものように紫が、奏也に告白をした女子生徒の前で、奏也とのキスシーンを見せつけた時のことだ。
 突然、物陰から空城 翼が現れた。
 翼は、泣いている女子生徒の傍に駆け寄ると、そっと労わるように彼女の肩を抱いた。
 彼女に付き添いを頼まれて、すぐに駆けつけられる場所から様子を伺っていたのだ。

「紫、こんなことをするのは間違ってる。
 告白する彼女達の気持ちを考えたことがある?
 どれだけ勇気を振り絞ってここへ来たか、あなたには分からないでしょう。
 あなたのしたことは、そんな彼女たちの心をひどく傷つけた。
 誰かを好きだって気持ちを否定する権利は、誰にもない。もちろん、あなたにも。
 いくらあなたが理事長の姪だからって、何でも許されると思っていたら大間違いよ。
 今すぐ、彼女に謝って」

「はあ?
 なんで、あんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ。
 奏也は、私の許嫁なの。婚約者なの。
 勝手に他人のものに横から手を出して許されるとでも思ってるの?!
 それに⋯⋯紫って、馴れ馴れしく呼び捨てにしないでくれる?!
 あんたなんか⋯⋯あんたたちなんか⋯⋯皆、奏也の前から消えてちょうだい!!」

 ばしーーーん⋯⋯っ!

 と、その場に高らかな音が鳴り響いた。
 紫は、一瞬何が起きたのか分からなかった。
 次第に自分の頬がじんじんと痛んでくることに気が付くと、赤くなった頬を抑えて、信じられないものを見るような目付きで翼を見返した。
 泣いていた女子生徒もあまりのことに驚いて、すっかり涙がひき、真っ青な顔をしている。

「そんなんだから、友達ができないのよ。
 奏也くんだって⋯⋯いつかあなたに愛想をつかして、離れていくわ。
 彼の気持ちも考えてあげてっ!」

 それまで父親にすら叩かれたことがない紫は、あまりの衝撃に呆然と突っ立っていたが、すぐに正気を取り戻すと、翼に向かって掴みかかった。

「何するのよっ!!
 あんたなんか⋯⋯あんたなんか⋯⋯私と奏也のこと、何も知らないくせにっ!!!」

 女二人の取っ組み合いの喧嘩が始まり、奏也も止めに入ったが、騒ぎを聞きつけた他の生徒たちが先生を呼び、事態は大事となった。
 そして、このことは、あっという間に学園中の生徒たちが知ることとなったのだ。

 それまで私立聖夢学園の理事長の姪、ということもあり、この学園で女王様のように君臨していた紫は、あっという間に失脚。
 逆に、女王様に上訴した翼の存在は、他の学年の全生徒たちにまで知られることとなった。
 誰もが逆らえなかった〝現代の悪役令嬢〟に異を唱えた空城 翼は、〝現代の聖女〟と呼ばれ、もてはやされた。


「⋯⋯どうして私を庇ってくれなかったの?
 奏也」

 帰宅途中のリムジンの中で、紫は、奏也に訊ねた。
 頬には、冷やしたハンカチを当てている。

「どうしてって⋯⋯」

 奏也が俯き、膝の上に乗せた自分の拳を見つめる。

「奏也は、私の許嫁なんだから。
 私を庇うのが当たり前でしょう」

 言葉とは裏腹に、紫の口調には覇気がない。
 まるで何かを諦めているような、痛みをぐっと堪えているようだ。
 しばらく沈黙が続いた。
 やがて奏也が意を決したように拳を握りしめる。

「⋯⋯翼が言ったことは正しいよ。
 もうあんなこと⋯⋯やめにしないか?」

 俺も辛い、と最後は聞き取れない程の小さな声で奏也は言った。
 その言葉に、かっと頭に血が上った紫は、手にしていたハンカチを奏也に投げつけた。

「そんなこと、あなたに言える資格があると思ってるの?!
 あなたが、奏也が⋯⋯⋯⋯私を傷つけたくせにっ!!」

 ――約束するよ。

 まだ幼さの残る奏也が泣きながら紫に告げてくれた言葉。
 それだけが紫の心の支えだったのに――――。


 ***


 授業中、誰もいない校舎裏で、一人タバコをふかしている男子生徒がいた。
 私立聖夢学園の制服を気崩し、ブリーチをかけた髪はワックスで立てられ、派手なピアスが耳元で光っている。
 そこへ、一人の女子生徒が近づいて来ると、彼に向かって声を掛けた。

「白山 晃牙くん、だよね。
 あなたに、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」

 晃牙は、ちらっと女子生徒に目をやると、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
 無視された、と思った女子生徒が再び口を開こうとした時、晃牙が咥えていたタバコを指でつまみ、口から煙を吐いた。

「…………何?」

 無視されたわけではない、と気付いた女子生徒が気を取り直して質問を続ける。

「あなた、柏崎 紫と富瀬 奏也くんと、幼馴染なんだよね。
 もしかして、二人が許嫁になった理由とか、何か知らない?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「それは……ただ、興味があるだけ。
 ねぇ、あの噂って、本当なの?
 実は、あの二人が許嫁なのは、お互いが好き合っているからじゃないって……」
「俺が知るかよ」
「私、知ってるんだから。
 あなたが裏で色々とヤバいことやってるって。
 私の父は、検事総長と繋がりがあるの。
 もし、あなたが私に協力してくれるなら、あなたのことを父に宜しく伝えてあげてもいいわよ」

 そう言うと、女子生徒は、晃牙の返答を待った。
 しかし、晃牙は、何を考えているのか分からない表情で、じっと空を見つめている。
 彼の咥えていた煙草から灰がぽとりと落ちた。
 何も答えようとしない彼に痺れを切らした女子生徒が苛立った口調で声を上げる。

「なによ、何も知らないなら、知らないって言いなさいよっ」

 すると突然、晃牙が立ち上がり、咥えていたタバコを地面に放り投げた。
 そして、まだ煙が立ち上るタバコを足で踏みつけると、怯えた顔で様子を見ていた女子生徒に向き直り、口角を上げる。

「あの二人には、秘密があるんだよ」

 それはまるで悪魔の笑みのようだった。