あ、降ってきた。朝、母に声を掛けられ持ってきた傘を右手で持ち、肩に重心を置く。私は家への道を進んだ。梅雨真っただ中、雨が降るのは仕方がないことだが、やっぱり嫌いだ。好きになることは一生ない。というか好きになる理由がない。
 傘を忘れた人、誰かに借りる人、入れてもらう人、急いでいるのか、走って勢い良く雨の中に溶け込んでいく人。立ち止まって見ていた私は、その中の誰にも当てはまらなかった。
 唯一、仲が良いと言える関係の彼女は、まだ曇り空だった登校時に「部活があるから先に帰って」と言っていた。下校のチャイムが鳴って少し言葉を交わした後、私が誰かに声をかけられることはなかった。背負っているリュックサックには折り畳み傘が入っていた。


「本日も朝から読書ですかー」
「おはよう、茉里」
 おはよぉーと気が乗らない返しだった彼女は中学校の同級生であり、そして親友だ。活発でコミュニケーション能力が高い茉里は常にたくさんの人に囲まれている。そしていつもニコニコしている茉里の笑顔には、3年近く友だちの私でも惹かれるものがある。
「明日放課後予定ある?」
 そう聞いてきた茉里の頬には、淡く、桃色のチークが染まっていた。メイクをしていて、明日の予定を聞いてくるということは、部活に休みが入ったということ。
「えぇ、特に予定はないわ」
「じゃあさ、あそこのショッピングモール行かない!?見てみたいものたくさんあるんだぁー」
 再度了承の返事をした私の目を見て、テンションがさらに上がった彼女はこれこそ満面の笑みといった表情で笑った。茉里は顔のバランスが整っているから、黒く大きな瞳や上向きの長い睫毛、形がよい唇に小さく鼻筋が通っている高い鼻が、メイクをすることによってさらにはっきりと、可愛くなる。そうして常に可愛さを求め、努力をする茉里は私の目にはいつだって輝いて映るのだ。
 そんな何気ない会話をしていると、私たちが通っている高校“透華学校”の象徴ともいえるハナミズキが見えてきた。
 こうしてまた、何気ない一日が始まる。

「泉!お前は話を聞いてるのか!」
「聞いてなかったー、すんません」
 ざわざわしていた教室が社会教師、酒井の怒声で静まり返った。酒井とは反対に私は笑いそうになる。茉里が注意を受けるのはいつものことだ。すると酒井は別の生徒の名を呼んだ。
「ったく。瀬戸!お前もだぞ」
「、、、はい」
「ずっと窓の外を見てどうした?授業に集中しろ!」
「、、、すみません」
 反省しているのかしていないのかわからない声色だった。一瞬、後ろを向いた彼と目が合う。私は何事もなかったかのように視線を窓の外に移した。
 風に揺れる新緑の葉に、白く、勇ましい入道雲。生温く、優しい風が私の髪の毛をなびかせた。自然と、私の口角が上がった。
 一日の締めくくりである6時限目は国語だった。外の温度よりマイナス6度に設定されている冷房と、カーテンで遮られ、少し刺激が和らいだ日光が心地よく、窓側の生徒は別世界へと誘惑されていた。
 そんな中、社会の時間は注意されていた彼だけは、まるで別人のように背筋を伸ばし、お手本のような姿勢で授業を受けていた。ほとんどの人にとって、お昼寝タイムの時間に。理由はわからないけれど、その姿がとても、印象的だった。

「え」
 空が柑橘系の色に染まってきたころ、ある場所へと向かっていた私に、後ろから声がした。
「、、、一条さん?どうしてここに?」
 戸惑う。私の名字知ってたんだな、とか失礼なことを思ってしまった。びっくりした私はとりあえず適当な理由を述べた。
「私は、少し外の空気を吸いに。瀬戸くんこそ、どうしてこんなところに?」
「前から少し気になってて、興味本位で来てみた」
 よくわからないが、とりあえず納得のいったということにして返事をした。まさかこんな所で初めて会話を交わすとは思いもしなかった。
 彼は私をじっと見てきたので、居ても立っても居られなくて、私から声をかけてしまった。
「、、、どうしたの?」
「勝手に来といてなんだって感じなんだけど、その、鍵とかって、、、?一応立ち入り禁止だし」
 鍵。私の手元にそんなものはない。なぜなら、ここに足を踏み入れたのは今日が初めてじゃないから。
「私が前開けた時から見回りが来てなければ、空いてるはずだわ」
 そう答えてドアノブに手をまわした。

 ガタッ。

 設立して約60年の歳月が経ったこの学校の、年季の入ったドアを開ける。
 この時間帯のこの天気、海が見えるこの高校ならではの絶景と、少しの潮風。
 思いっきり深呼吸をする。全身の血と、筋肉と、骨を使って。体の隅々まで、酸素がまわるように。
「一条さん?」
 さっきとは違う、少しの驚きと戸惑い、そして期待を混ぜた声で彼は私を呼んだ。
「ごめんなさい、空気が綺麗で、つい」
「いや全然、お構いなく」
 彼は見惚れていた。目の前の景色に。前にも来たことがあるのだろうか。来たことがあるのなら、以前のことにに思いを馳せ、目の前の景色に違った深みを感じるだろう。初めてだったら、ただ純粋に、綺麗という感動、驚き、好奇心からだろうか。そんなことを考えていた時、彼は私に質問をした。
「、、、一条さんは、いつからここに来てるの?」
「7歳の夏、ここの在校生だった兄に連れられて内緒で来たの」
「一条さんってお兄さんいるんだ」
「えぇ、今はY大学に通っているはず。もう昔のように仲良くないけれど」
 すこし笑いが混じった声で言った。本当は噓だ。仲良くないという言葉で片付けられる程、柔らかいものではない。兄とはここ数年、会話という会話をしていないから。どれも私が発端なのだが。そんな自分に腹が立ち、呆れ、笑ってしまった。
「そっか。」
 彼も私の笑いにこたえるように笑った。私とは違う、優しい笑みで。
「まぁ、家族に喧嘩なんて付き物でしょ。お互いを思いあってる証拠。」
「瀬戸くんは、優しいのね」
「え?全然」
 彼は少し照れたように手を動かした。すると彼は言葉を続けた。
「、、、ただ、後悔は残しちゃ駄目だ」
「、、、後悔?」
 そんなことは私の脳内になかった。後悔?疑問に思ってまた彼に目をやると、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼は苦しそうに俯いた。でも私が瞬きすると、目線の先にはいつもの何考えてるかわからない表情の彼がいた。


「ねぇ、昨日私がいない間に何かあったでしょ」
「、、、急にどうしたの?」
「なんか、いつもと違う!綺麗なお顔に皺が寄ってますよー」
「うそ」
「ほんとー」
 某カフェのロゴがついたカップを片手に、茉里は私に好意混じりの疑いの目を向けた。
「そんな顔するなんて珍しいねー、気になる人ができたとか?」
「、、、いやいや、そんなわけ」
「えぇーほんとかなー?」
 茉里は人の変化に敏感だ。前髪切ったとか、メイク変えたとか、風邪っぽいとか。体調以外にも何か良いことあったとか、ショックで落ち込んでるとか、茉里はそういう相手の変化に気付いて気遣いができる。だから茉里は男女問わず愛される存在なのだ。
「怪しいなー、でも今日のところは聞き出さないであげる」
「何度聞いても返ってくる答えは一緒だと思うけど」
「それでもいいのー」
 じゃあなんで聞くの、そう思い声にしようとすると、茉里は言葉を続けた。
「今のところは、でしょ?絶対なんてないから」
 そう言って茉里は前を進んだ。明るくて、可愛くて、優しい。私は持ってない、茉里の魅力。 
 茉里と私は正反対だ。


「んぁー!取れない!両替してくる!」
「茉里、流石にそろそろ辞めたら?もう千円札三回は両替してるわよ」
「だってぇー」
 ゲーセン限定なんだもん!と駄々をこねる茉里の手には両替済みの百円玉が十枚あった。洋服や化粧品を見てからのゲームセンター、現在の時刻は午後5時。
「あと五回だけ!お願い!」
「、、、五回だけよ」
 彼女の表情が一気に柔らかくなる。茉里はうさぎのぬいぐるみの方にダッシュで駆けて行った。
「もしかしてだけど、一条?」
「あら、水野君も来てたのね」
「おう、ここがどんな感じか気になって」
 そう言う彼は一個上の学年で、剣道部の主将である。180近くある身長なのに穏やかな雰囲気なのはきっと彼の人柄の良さが滲み出ているからだと思う。
「え、透志じゃん」
「お前もいたのか、本っ当にいつも一緒だな」
「うっさいなー、仲良しなんですぅー」
 いつの間にか戻ってきた彼女は前髪をいじりながら文句を言っていた。幼馴染である二人はどうやら恋愛のこととなると奥手らしい。ここは私が一肌脱ごうか。
「あのさ、私さっき見たいお店見つけちゃって。一人でじっくり見たいから二人でお茶でもしてきたら?」
「「え?」」
「しかもほら、、、水野君も茉里も部活で忙しいし、今度いつ遊べるかわからないんだから」
「でも、、、」
 茉里は私を見た。申し訳ないと思っているのか。
「茉里と私はいつでも来れるけど水野君とは来れないでしょ?」
 茉里が考える素振りをする。
「ほら、悩むなら行ってらっしゃい」
 水野君にもファイトのガッツポーズを送り、私は半ば強引に二人を送り出した。