◯真っ暗な空間・日菜の抱えている不安を象徴する夢

幼い日菜がきょろきょろとしながら迷子になっている
日菜「お父さん? お母さん? どこに行ったの?」
そんな日菜の前に突如落ちてくる、彼女の通帳とワインで汚してしまった皐月のタキシードジャケット。
幼かった日菜も現在の容姿になる。
【そうだ、私、借金を返さなきゃいけないんだった――】
荒い呼吸をしながら自分を追い詰める日菜に、黒い霧のようなものまとわりつく。
日菜「(働かなきゃ。もっと、頑張らないと……)」
日菜「(でもなんだかすごく疲れた。体が重い。息が苦しい)」
日菜「(どうしよう。どうしよう……!)」

◯2話の続きのベッドルーム・朝日が差し込んで明るくなっている

日菜「はっ……!」
ハッと目を覚ます日菜(夢を見ていたことは覚えていない)。
明るく広いベッドルームの絵。
日菜が隣を見ると、皐月が健やかな顔で眠っている。
日菜「(そうだった。昨日この人と……)」
昨日のことを思い出しながらベッドから起き上がる日菜。
時計が7:05を指している。
【こんなに寝たの、久しぶり】
【疲れてたっていうのもあるけど、それにしてもよくこんな状況でぐっすり眠れたな】
日菜「(新聞配達のない休刊日でよかった)」
自分の図太さを感心しながら、眠る皐月に視線を移す日菜。
日菜「(黒宮皐月さん、だっけ)」
日菜「(改めて見ても本当に綺麗な人)」
皐月の綺麗な寝顔のアップ。
皐月の顔を見て、昨夜彼にあちこちキスをされたことを思い出し真っ赤になる日菜。
赤い顔を押さえながらため息を吐く。
【怯える私を見てやめてくれたんだよね】
【出会ったのがこの人じゃなかったら、私はきっとヤケになったのを後悔することになってたはずだ】
冷静になった頭で昨日の出来事を反省し、胸を撫で下ろす日菜。
日菜「(よかった……)」
【この人、たしかに女癖は悪いのかもしれないけど、きっと悪い人ではないのだろう】
【やっぱりタキシードのお金は、昨日の恩も込めていつかきちんと返そう】
日菜「あの、朝です」
決意を固めた日菜は、皐月に昨夜言いつけられたとおり彼に声をかけた。
しかし皐月は眉根を寄せるだけで、いっこうに目を覚ます気配がない。
日菜「く、黒宮さん……! 起きてください……!」
皐月「んん……」
しかたなく体を揺すると、やっと皐月のまぶたが薄く開いた。
その奥の目はまだ焦点が定まりきっていないが、日菜の姿をぼんやりと見るなり、皐月は甘く微笑む。
千歳(ちとせ)……?」
日菜「(ちとせ?)」
寝ぼけた皐月が甘い顔で知らない女性の名前を呼ぶ。
どうやら日菜と誰かを見間違えているらしい。
そんな皐月に首を傾げる日菜。
【誰の名前だろ。恋人のうちの一人かな】
日菜「(この人も本当に好きな人の前ではこんな顔をするんだ)」
日菜がきょとんと皐月を眺めていると、皐月もようやく目の前の人物が日菜であることに気づく。
皐月「……ああ、すみません、寝ぼけていました。今、何時ですか?」
日菜「7時を過ぎたところです」
皐月「7時? まだ早いではないですか……。僕はもう少し寝ますので、あなたはお好きにどうぞ」
迷わず二度寝を決め込み、寝返りを打って日菜に背中を向ける皐月。
ベッドから下り、こちらを見ていない皐月に頭を下げる日菜。
日菜「お金はいつかきちんと払いますので。失礼します」
小声で宣言し、そそくさと部屋を後にする日菜。
日菜に背を向けながらも、彼女の言葉をしっかりと聞いて何やら思案する皐月(実はまだ起きていた)。

◯二人の出会いから1週間後・鷹也の家のパン屋さん

日菜「ありがとうございました!」
パン屋さんに来ていたお客様を笑顔で見送る日菜。
【まるで夢を見たようなホテルでの出来事から1週間】
【今まで以上にバイトに励んでいるものの、相変わらず借金を返し終える見通しは立っていない】
日菜「(でも落ち込んでたってしょうがない。働かないとお金は稼げないんだから)」
強く目を閉じ、自分を鼓舞する日菜。
鷹也「よし、店じまいだ。今日もありがとな、日菜」
日菜「ううん。こっちこそシフト入れてくれてありがとう」
パン屋さんの制服であるエプロンのリボンを解く日菜。
その瞬間に足元がふらついてしまう。
日菜「わっ」
鷹也「おい、大丈夫か?」
ふらついた日菜をとっさに支える鷹也。
日菜「ごめん、大丈夫。ちょっとふらついたみたい」
苦笑いをする日菜を深刻そうに鷹也が見つめる。
鷹也「本当に大丈夫なのか? なんか最近様子が変だぞ?」
鷹也の言葉にぎくりと肩を揺らす日菜。
日菜「えっ? そうかな? あはは……」
日菜「(まさか借金を増やしただなんて言えるわけないよね……)」
鋭い鷹也に冷や汗を流す日菜。
日菜「ちょっと疲れてるのかも。今日は早めに休むね」
鷹也「そうだな。日菜は働きすぎだ。目の下にクマもできてる」
親指で日菜の目元に触れる鷹也は、疲れの見えるその顔を見て辛そうにため息を吐く。
鷹也「なぁ。やっぱりあんな借金を返していくなんて無理なんだよ」
日菜「そっ、そんなことないよ。私、元気だけが取り柄だし! 頑張ってたら、そのうちなんとかなるよ!」
空元気に振る舞う日菜を痛々しく思いながら見つめる鷹也。
鷹也「ずっと考えてたんだけどさ、俺にも協力させてほしい」
日菜「へ……?」
鷹也「俺も一緒に日菜の家の借金を返すよ」
鷹也の言葉を聞き、思わず慌てる日菜。
日菜「か、家族じゃない人にそんなことさせられないよ!」
鷹也「だからって今の生活を続けてたら、日菜の体が壊れちまうだろ!」
【まさか鷹也がそんなことを考えてたなんて】
日菜「そんなことない! ねぇ、お願いだから私を信じて!」
鷹也「日菜こそ、もっと俺を頼ってくれよ!」
【どうしよう……!】
お互いに一歩も譲らず言い合う日菜と鷹也。
そんな二人の応酬を止めるように、閉店したはずのパン屋の扉が開く。
男性「失礼いたします」
現れたのはハットを被った見慣れない黒ずくめの男性だった。
その男性を見て、途端にパン屋の跡取りたる笑顔に戻る鷹也。
鷹也「申し訳ありません。本日の営業は終わってしまったのですが」
皐月「いえ、私はそちらの菅野日菜さんに用がありまして」
日菜「えっ……?」
不審な見た目の男性に名前を呼ばれて眉根を寄せる日菜。
男性がゆるりとした動作でハットを脱ぐと、きらきらした髪が揺れる。
皐月「黒宮さん……!?」
日菜「お久しぶりですね。覚えていていただけて光栄です」
驚く日菜と、にっこりと微笑む皐月。
【その美しさを簡単に忘れられるわけがない】
【だけどどうしてこの人がここに……?】
皐月の姿に戸惑う日菜だが、すぐさま思い直し、脱いだエプロンを鷹也に渡す。
日菜「そうだった! 私、これからこの人と会う予定があったの。じゃあお疲れ様!」
鷹也「お、おい日菜っ!」
鷹也の声を振り切り、日菜は皐月の腕を掴んでパン屋を出ていく。

◯近くの公園・夜8時ごろで下弦の月が浮かんでいる

皐月の腕を引き、近くの公園までたどり着く日菜。
日菜「すみません、私のことに巻き込んでしまって」
皐月「いえ」
日菜「っていうか! どうして私の名前を知ってるんです!?」
皐月「調べました。ですが知っているのはお名前だけではありませんよ?」
日菜に近寄り、その耳元で囁く皐月。
皐月「あなたの家庭環境も、お父様に多額の借金ができたことも、その借金のせいであなたがバイトに明け暮れていることも、すべて存じています」
日菜「なっ……!」
不敵に笑った顔を見上げ、日菜は言葉を失う。
日菜「そんなことを調べて何を……」
日菜が問うと、皐月はまるで心外だとでもいうかのようにムッとした。
皐月「何ってあなた、僕との契約を破ったでしょう?」
日菜「へ?」
皐月「僕はタキシード代の代わりにあなたの時間を買った。それで契約は成立したはずなのに、あなたは弁償すると言って出て行ってしまった。これでは契約が成り立たなくなってしまう」
3話冒頭のベッドルームで頭を下げる日菜の絵。
【あの言葉は黒宮さんに言ったっていうより、自分への決意のようなものだったんだけど】
日菜「それは私が勝手にすることなので、気にしないでください」
皐月「いいえ。それでは単に僕が借りをつくってしまったということになる。庶民に借りをつくるなどあってはならない。黒宮の人間としての沽券に関わります」
きっぱりと言い切る皐月の頑固さに少し苛立つ日菜と、そんな日菜をお構いなしににっこりと笑みを浮かべる皐月。
皐月「ですから契約を成立させるべく、あなたにいい話を持ってきました。これであなたの時間を買った借りは帳消しにしていただきたい」
日菜「いい話……?」
皐月「ええ。端的に言います。あなたを僕のパートナーにしたいのです」
日菜「パートナー、とは?」
脈絡もなく出た言葉に首をひねる日菜。
皐月「社交界というものをご存じですか?」
日菜「?」
皐月「社交界とは富裕層の人間が定期的に交流する場のことなのですが、出席するときには通常、パートナーを伴います。妻であったり許嫁であったり、恋人であることが普通です」
日菜「そのパートナーを、私が」
皐月「はい。謝礼はあなたのお父様が抱えている借金の総額と同じ額をお支払いします。契約期間中の衣食住も保証しましょう。ああ、それからタキシードの件もなかったことに」
日菜「ちょ、ちょっと待ってください! 話がうますぎる気が……」
皐月「もちろん謝礼に相応する努力はしていただきますよ。ダンスはもちろん、所作や言葉遣い、テーブルマナーなんかも覚えていただかなくては」
聞いたことのない世界の話にたじろぐ日菜。
皐月「期間は半年後までです」
日菜「半年後に何かあるんですか?」
皐月「僕の二十歳の誕生日を祝う晩餐会ですよ。僕が主賓となるので、この晩餐会だけはどうしてもパートナーを伴わなければならなくて」
皐月「晩餐会で、あなたには僕の恋人として挨拶をし、共にダンスを披露してほしいのです。そこで契約は満了となります」
【たった半年で借金を返済できるというのなら、すごくいい話だけど……】
【簡単に乗ったりしてもいいのかな……?】
笑顔で契約を持ちかける皐月を疑り深く見つめる日菜。
日菜「でも、庶民の私をパートナーにして黒宮さんに何の得が? あなたならパートナーくらいいくらでもつくれるでしょう?」
【そうだ。社交界などまったく知らない庶民の私に一からダンスやマナーを叩き込むより、すでにそれが身についている人をパートナーに選べばいいはず】
【黒宮さんは飛び抜けて綺麗な人なのだから、わざわざ多額の報酬を払わなくても、彼と踊りたいご令嬢などきっとたくさん存在するのに】
日菜の言葉に少し驚き、感心を見せる皐月。
皐月「あなたの言うとおり、パートナーにならどこぞの家のご令嬢でも据えればいい。その方がずっと手っ取り早いというのは分かっています」
日菜「それなら――」
皐月「ですがそうなってしまえば、自ずと結婚の話が登るでしょう。僕は生涯独身でいたいので、それでは困るのです」
日菜「(なるほど)」
【社交界で特定のパートナーを伴うことは、未来の奥さんを選んだこととほとんど同じ意味だというわけだ】
【だけど契約関係ならば後腐れなくパートナーを解消できるし、私のような庶民なら契約終了後に結婚を迫るような大それた真似もできない】
日菜「(女癖の悪さが本当なら、結婚して束縛されるのも嫌がりそうだし)」
皐月が生涯独身でいたいと言う理由を想像し、呆れ顔の日菜。
日菜「つまりもう打てる手はないってことですね」
皐月「でなければこんな無茶な契約を持ちかけたりしませんよ」
そんな日菜に迫り、皐月はまたしても妖しく綺麗に笑う。
皐月「いかがです? 期間限定で僕の恋人になってくださいませんか?」