◯ホテルの大ホール・第1話のつづき

【この人、女の子たちのあいだで話題になってた最低な御曹司だ……!】
対峙する日菜と皐月。
男性「黒宮様、申し訳ありません……! 大変な失礼をいたしました」
そこに上司の男性がやってきて、皐月に頭を下げる。
【って、今そんなことは関係ない。きちんと謝らないと】
自分のしでかしたことを思い出し、日菜も上司にならってもう一度頭を下げる。
そんな二人を気にも留めず、濡れたジャケットを淡々と脱ぐ皐月。
皐月「着替えをしたいので、部屋を借りても?」
上司「ええ、もちろんでございます。ただいま別のスタッフを呼びますので」
皐月「いえ、人手は結構」
上司「そのようなわけには……」
皐月「でしたら」
皐月の対応をする上司の後ろで、その様子をおずおずと窺う日菜。
皐月の目が面倒くさそうに日菜を映す。
皐月「そちらの方で構いません」
上司が持っていたカードキーを奪い、呆然とする日菜の腕を引いて歩き出す皐月。
そのまま二人でエレベーターへと乗り込む。
【なんだか予想外の展開になってしまったけど……】
エレベーターの狭い空間の中で並ぶ二人。
日菜「あの、本当に申し訳ありませんでした」
気まずさに居たたまれず、重ねて謝罪する日菜を、皐月はちらりと横目で見て鼻で笑う。
皐月「いえ、むしろパーティーを抜け出すいい口実になりましたよ。同窓の義理で出席したとはいえ、あんな乱痴気騒ぎ、趣味ではないので」
日菜「はぁ……」
本気なのか冗談なのか分からない言葉に曖昧な相槌を打つ日菜。
そこでエレベーターが最上階に止まり、扉が開く。

◯ホテルの最上階のスイートルーム

ホテルの最上階の廊下。
【このホテルの最上階には、特別なお客様専用のスイートルームがあるらしい】
【“らしい”というのは、清掃係の下っ端の私ではこの階に足を踏み入れることすらできないため、確認のしようがなかったという意味だ】
場違いな場所におそれおののく日菜とは対照的に、皐月は慣れた様子で廊下を進み、カードキーで部屋へと入る。
そんな皐月におずおずと着いていく日菜。
スイートルームは広く、ソファー、テーブル、テレビ、照明などがみな大きくて豪勢だ。
これまた大きな窓からは美しい都会の夜景が見えている。
皐月「これ、適当に処分しておいてください」
身をすくめる日菜に濡れたタキシードを渡す皐月。
相変わらず淡々としており、日菜にはまったく興味がない様子で目も合わせない。
タキシードを受け取り、覚悟を決めた顔でもう一度深く頭を下げる日菜。
日菜「この度は本当に申し訳ありませんでした。こちらはきちんと弁償いたしますので」
首元のタイをゆるめる皐月が、少し驚きが混じった表情で日菜を見る。
皐月のそんな顔を不思議に思い首を傾げる日菜。
皐月「弁償と言いますがそれ、フルオーダーなのでかなり値が張りますよ?」
日菜「いくらくらいなのでしょうか」
皐月「まぁ100万はくだらないですね」
皐月の発した金額に、今度は日菜が驚かされる。
日菜「(100万って……)」
【ただでさえ大きな借金があるっていうのに、さらに増やしちゃったってこと……!?】
青くなり絶句する日菜をつまらなそうに見下ろす皐月。
皐月「おそらくあなたにとっては大金でしょう? 別に庶民に金をせびる気はありません。どうせ何着も持っていますから」
日菜「で、ですけど――」
皐月「シャワーを浴びるので、あなたはもう帰っていいですよ」
皐月が背を向けてバスルームへと向かう。
広い部屋の中、一人ぽつんと置きざりにされ、日菜は所在なく手元に残されたタキシードを見下ろした。
いかにも高級そうな手触りのいいタキシードは、背中の大部分がワインの赤紫色に変色してしまっている。
日菜「帰っていいなんて言われたけど……」
大層な代物を汚しておいて、自分だけ逃げるなんて不誠実なことをするわけにはいかないと思う日菜。
俯いていた顔を上げ、力強く前を見据える。
その数十分後。
皐月「まだいたんですか」
バスローブを羽織った皐月が戻り、居座ったままの日菜の姿を見て、彼の目が迷惑そうに目を細められる。
その目に動じそうになったものの、日菜は意を決して皐月に向き合う。
日菜「何もしないまま逃げることなんてできません。きちんと弁償させていただきます。今すぐには難しいかもしれませんが、近いうちにきちんと」
【そうだ、他人に与えてしまった損害はきちんと償わなければいけない】
【貧乏な私だって、そんな人としての常識くらい持ち合わせている】
【それに庶民だからといって、初対面の人に情けをかけられるいわれはない】
頑なな日菜を冷めた目で見下ろす皐月。
皐月「はぁ……頑固な人ですね」
わざとらしいため息を吐く皐月は、それから一転して品定めするような目つきで日菜を眺め始める。
日菜「(な、なんなの……?)」
上から下までじろじろと見るようなその目に動揺する日菜。
すると皐月は不自然なほどにっこりとした笑みを浮かべる。
皐月「それならあなたをいただけませんか?」
日菜「は……?」
皐月「お金なら腐るほどありますから。くださるならどうぞその身を」
日菜「えっと」
皐月「僕は今夜、タキシード代の代わりにあなたを買います。それでこの話は帳消しということで、いかがです?」
笑顔を崩さないまま、皐月が何やらすらすらとおかしな提案をする。
その突飛な提案に日菜が呆気に取られていると、次の瞬間、日菜の返答を待たずに皐月が彼女を横抱きに持ち上げた。
日菜「わっ、ちょっと……!」
皐月「暴れないでください。落ちますよ」
日菜を抱えたまま、迷うことなく隣のベッドルームへと進んでいく皐月。

◯ベッドルーム・月明かりが差し込んでいる

思考が追いつかず呆然としているあいだに、ベッドの上へと下ろされる日菜。
電気のついていない室内は月明かりが射し込んでおり、日菜の眼前に皐月の美しい顔が迫る。
日菜「こ、こんな庶民を相手に遊ぶなんて……」
皐月「庶民だからこそですよ。金持ちのご令嬢なんかに手を出したりしたら、それこそ面倒なことになる」
信じられない事態に顔を歪める日菜。
そんな日菜に対して、不敵に笑って日菜の手を取り、その甲に恭しく口づけをする皐月。
日菜「(たしかこの人、噂では庶民ばかりに手を出すって言われてたけど)」
【庶民の女だったら誰でもいいとでも言うのだろうか】
【だとしたら、噂どおりの女癖の悪さだ】
皐月「怖いですか? 逃げていいですよ。追ったりしませんから」
上目遣いで意地悪に笑う皐月。
【この人はきっと、逃げることなんてできないと言った私の言葉を、おもしろおかしく試しているのだ】
【私が逃げればその姿をあざ笑って、たとえここに残ったとしても、一夜限りの気まぐれな遊び相手にするつもりなのだろう】
日菜「(誠実な対応をしたいという気持ちを、こんなふうに馬鹿にするなんて)」
皐月の笑みに、言いしれない憤りを覚える日菜。
日菜「逃げたりなんかしません。だけど自分を売ることもできません。償いなら、きちんとお金で支払います」
皐月「できるんですか?」
日菜「やります」
日菜が皐月を睨みながら即答すると、皐月は「生意気な」とでも言いたげに口の端を吊り上げる。
皐月「お金を稼ぐというのは厳しいものですよ? それも大金だなんて、これまでの生活が一変してしまいます」
日菜「そんなこと、言われなくたって分かってます……!」
悔しさに語気が荒くなる日菜。
【お金を稼ぐ苦労も知らないようなお金持ちに言われなくたって、そんなこと身にしみて知っている】
【私はこの3ヶ月間、死にものぐるいで働いてきたのだから】
(モノローグの間はいろんな格好で働く日菜の絵。清掃・接客・内職など)
【日が昇らないうちから起きて、眠れるのはいつも日付が変わったあとで】
【一日も休まずに働いても、借金はほんの少しずつしか返すことができなくて】
【そんな現実に絶望しないように、無理やり笑顔をつくって生きてきたのだ】
日菜「っ……!」
自分の現実を思い返し、その苦しさから涙目になる日菜。
情けなく泣き出してしまわないように、唇を噛んで耐える。
皐月「そう意固地にならなくてもいいのに」
そんな日菜の心情を見透かしたかのように、彼女の耳元で囁く皐月。
日菜「(絶対にダメ……!)」
【たとえお金を稼ぐためでも、自分を売ることなんてしたくない】
日菜「(だけど)」
【たった一晩この人と過ごすだけで償うことができるのなら、お金を返すよりもずっと楽だ】
皐月の誘惑に、ぐらぐらと揺れつつも拒もうとする日菜。
近づく皐月の胸を弱々しく押し返す。
皐月「どうするんです?」
まるで喧嘩を売るように、せせら笑いながら首を傾げる皐月。
その顔をキッと見上げてから、唾を飲み込み、やがて日菜は目をつむった。
皐月「契約成立ですね」
心得たと、皐月が楽しげに笑う。
【自分でもヤケになっているということは分かっていた】
【分かっているけれど、止められなかったのだ】
日菜「(でも大丈夫。少しのあいだ我慢していればいい)」
日菜「(それだけのことだ)」
日菜の頭やこめかみ、頬にキスを落とす皐月。
しかし怯えて震える日菜の様子に気づき、唇が触れ合う数センチのところで二人の距離が止まる。
皐月「もしかして……いえ、もしかしなくてもあなた、初めてですか?」
日菜「へ……?」
突然の皐月の問いに驚き、目を開ける日菜。
調子外れな声で聞き返すと、皐月が疑わしそうに見ている(少し思いやりが滲んだ表情で)。
皐月「こういうこと、したことないのでしょう? ていうかあなた、いくつなんです?」
日菜「じゅ、17歳ですけど」
皐月「未成年じゃないですか……。僕を前科持ちにさせる気ですか」
日菜の答えに拍子抜けし、彼女から少し距離をとって胡座をかく皐月。
そんな皐月の顔色を日菜がおずおずと窺っていると、皐月は苛立たしそうに息を吐く。
皐月「子供に無理強いをするほど、僕は最低な人間ではありません。あなたもきちんと言えばいいものを」
日菜「でも、お金が」
皐月「ああ、そうでしたね。まったく頑固な……」
色素の薄い髪を乱雑にかき上げる皐月。
その一筋がさらりと頬に落ちるのに目を奪われる日菜。
皐月「分かりました。では契約は変更です。あなたは僕の目覚まし時計になってください。それでこの話は帳消しにしましょう」
日菜「へっ? 目覚まし時計?」
皐月「疲れたので寝ます。朝になったら起こしてくださいね。僕は寝起きが悪いので、頼みましたよ」
皐月はそう言うと、日菜を巻き込みながらなだれ込むようにしてベッドに横になる。
日菜「ちょっと待っ――んんっ!」
勝手に話を終わらせてしまった皐月に抗議をしようとした日菜だが、彼の手で口を塞がれてしまう。
そのうちに皐月の静かな寝息が聞こえてきてしまい、彼の綺麗な寝顔を横目に見て、大人しく脱力する。
安心したためか、再び涙が込み上げてくるのをぐっとこらえ、天井を見上げる日菜。
その視線の先には豪奢なつくりのシャンデリアが吊られており、月の光を受けてきらきらと輝いている。
日菜「(大きなシャンデリア……)」
【あれを売ったら、いったいいくらになるのだろう】
シャンデリアの輝きに目を細め、そのまま目をつむる日菜。

◯窓の外の夜景

【すごいところ】
【まるで夢を見ているみたいだ】