私はどきりとした。酔っぱらって、宍戸に自宅まで送り届けてもらった夜のことを思い出す。理由はどうあれ、あの時の私は、一瞬気持ちが揺らぎそうになった。でも、と私は誓うように、両腕で自分の体を抱き締める。
二度と流されそうになったりしない――。
宍戸は続ける。
「俺はこれまで何度も、岡野に気持ちを伝えました。でもその度に、補佐のことが好きだからって振られてるんですよ。こないだなんかはもう我慢できなくなって、力づくで抱いてしまおうかとも思ったんですけどね」
「お前――」
補佐の口から低く静かな声がもれた。それは、感情的になりそうな自分を抑えているようだった。
「そんなことできなかったし……あいつ、泣いたんです。補佐の名前言って。だから」
宍戸は自分の足元に視線を落とす。
「補佐が岡野の気持ちを受け入れられないっていうんなら、さっさと振ってやってくれませんか。そうすれば、あいつだって諦めがつく。選択肢なんて、イエスかノーか、それしかないんだから簡単でしょ。俺は、あいつが泣く顔なんか見たくないんですよ」
補佐が絞り出すような声で言った。
「彼女のことをなんとも思ってないわけじゃないし、そんな顔をさせたいわけじゃない……」
「本当かなぁ」
宍戸がふっと笑う。
「俺だったら、岡野を泣かせたりしませんよ。だから、最初の話に戻りますけど――」
宍戸は補佐の顔を見据えた。
「岡野は俺がもらいます」
「もうやめて」
私は隠れていたキャビネットの影から飛び出した。それ以上、彼らの様子を黙って見ていられなかった。
「岡野さん、君……」
「お前、いたのか……」
二人の声がほぼ同時に聞こえた。
私は両手を握りしめながら、宍戸の前につかつかと歩み寄った。高ぶりそうになる感情を抑えて、低い声で言った。
「もう、やめて。補佐を責めるようなことを言わないで」
私の姿を見て動揺していた宍戸だったが、私の言葉に眉を微かに寄せながら微笑んだ。
「責めていたわけじゃないさ。はっきりさせたかったんだよ、色々と」
けれど私は宍戸の微妙な表情には気づかず、強い口調を崩さなかった。
「宍戸にはもう答えたはずでしょ。だからあとはもう、宍戸には関係ないっ」
そう言った次の瞬間、私の唇は宍戸に塞がれた。
「っ……」
私は驚いて宍戸を押しのけた。
同時に、補佐の腕が私の体を包み込む。
「やめろ」
怒りをにじませた補佐の声を聞きながら、覚えのある感触とその匂いに私は緊張した。
「補佐、そんなに大事なら、そいつのことしっかり捕まえておかないとだめですよ。岡野は隙だらけな上に、呆れるほど自覚ってもんがないんですから。俺みたいなやつが、また現れる可能性だってあるんですから」
宍戸は手の甲で自分の唇を拭いながら、補佐を見た。
「仕方ないんで、岡野のことは補佐に任せますよ。でも、また泣かせるようなことがあったら、その時は邪魔させてもらいますんで、そのつもりでいてくださいね」
それから私に向かって、宍戸は優しい目を向けた。
「今度こそしっかり捕まえろよ」
「あ……」
「それじゃ、俺は先に戻りますので。ほどほどにごゆっくり。岡野、キス、ごめんな」
最後にふざけたようなセリフを口にして、宍戸はそもそもの目的だったと思われる資料のファイルを抱えて、私たちの前から立ち去った。