決算用資料を整えるという作業は、一日で終わるようなものじゃない。
しかしこの日、私たち事務チームは久しぶりに早く帰れることになった。ひとまずめどが立ったから、という上司の嬉しい一言のおかげだ。ここ最近、皆んながそれぞれに残業続きだったから、早く帰りたい気持ちは同じだったようだ。誰もがいそいそと帰り支度をして、席を離れて行った。
ひと足遅く入ったロッカールームは、しんとしていた。備え付けの鏡で簡単にメイクを直してから、私はぼそっと一人つぶやいた。
「どうしようかな……」
今日はこのまま帰りたくない気分だった。ロッカールームを出ると、手の中で携帯をもてあそびながらゆっくりと歩く。
仕事の忙しさで気が紛れていたが、二、三日前に補佐の顔を見てしまったことで、少し気持ちが不安定になっていた。
誰か友達にでも連絡してみようか。でも週末だし、もう皆んな約束とかあったりするよね。それとも――。
あることをふと思いついて立ち止まった時、宍戸が大股で歩いてくるのに気がついた。
「あれ、岡野?今帰り?」
宍戸は私を見ると、驚いたような顔をした。
「仕事終わったの?」
訊ねる私に宍戸は短く答えた。
「そ。今日はもう帰る」
そう言いながら、彼は肩にぶら下げたリュックをかけ直した。
「そっか、お疲れ様」
「岡野は?このまま帰るの?」
「そうね……友達でも誘って、飲みに行こうかなって思ってたけど、週末だからね」
「ふぅん……」
宍戸は少し考えるような顔をしたが、次の瞬間にっと笑った。
「じゃあさ、俺と飲みに行こうぜ」
「え、でも、それは……」
私はためらった。以前と同じように接することができつつあると言っても、宍戸と二人だけでいるのはまだ気まずい。その上、不意打ちでキスされたという記憶がまだ残っていて、彼への警戒心を完全に解くことはできていなかった。私にとって、あれは重大事故だったから――。
エレベーターが止まった。
乗るのを躊躇していたら、扉を押さえながら宍戸が苦笑いを浮かべた。私の考えを察したようだ。
「何もしないって。とりあえず乗りなよ」
「う、うん」
ぎくしゃくと頷いて、私は中に乗り込んだ。
扉が閉まりエレベーターが動き出すと、宍戸が明るい調子で言った。
「何があったか知らないけど、今日は飲みたい気分なんだろ。俺でよかったら付き合うぜ」
彼の顔を見上げて、私は訊ねた。
「どうして何かあったって思うの?」
「ん~、カンってやつ?」
宍戸は宙を見ながら答え、それからふっと笑った。
「で、どこか行きたい所は?今日は特別におごってやる」