「岡野さんからあの店を指定された時も、例え偶然にだって絶対に会うことはないと思っていたんだけど……」

補佐は大きなため息をつくと、組んでいた手を額に当てた。表情が見えなくなる。

「まさか、あの人と顔を合わせることになるなんて思わなかった」

それを聞いて、私は得心がいった。以前あの店に来た時一緒だったのは、元妻であるあの女性だったのだと。 

なぜ別れることになったのだろう――。

補佐があんな表情をした理由が気になった。

私が思いつくのは、性格の不一致、不倫、暴力くらいだ。でもあの時、あの人は補佐の腕に自ら手を伸ばそうとしていた。ついそんな行動を取ってしまう理由とはなんだろう。

補佐は組んでいた手を解くと、腕を組んで正面を向いた。

「あの人に会ったら……」

彼は向こう側の壁に、ぼんやりと視線を向ける。

「思い出してしまった。俺たちが離婚したのはどうしてだったのか。そうなったもともとの原因がなんだったのか――」

私はただ黙って、補佐の話に耳を傾ける。

「あんなことはもう二度と繰り返したくないと思った俺は、それなら誰のことも好きにならなければいいんじゃないか、単純にそんなことを思っていたんだ。それなのに白川さんを好きになった。離婚から3年ほどたっていて、色々と落ち着き出した頃だったと思う」

補佐の表情がふと緩んだ。その頃のことを懐かしく思い出してでもいるのか。

「その話の顛末は、もう知っているよね」

補佐は笑みを浮かべて、私を見た。

「結果的には振られてしまったけど、実はあの時安心した。あんなことがあっても、俺はまだ誰かを好きになることができるんだ、ってね。それからね、知ったことがあった。誰かを好きになるって気持ちは、ブレーキをかけようとしても止められないものなんだってことをね」

あぁ、その通りだ――。

補佐の言葉がとてもよく理解できた。だって私も、同じように思ったことがあったから。

「白川さんに振られてからその後は、恋愛をしたいだとか思わなくなっていた。任される仕事が増えて忙しくなったせいもあるけど、色々あってね。好きだとか嫌いだとか、そういうのは煩わしく思うようになったんだ。ところが」

補佐は言葉を切ると、水滴だらけになったグラスに手を伸ばした。口をつけて喉を湿らせてから、ちらっと私の顔に視線を走らせ、ふっと目を伏せた。

「気になる人ができてしまった」

「気になる人、ですか……」

それを聞いて、私は頬をはたかれたような気がした。