はじめに口を開いたのは、女性の方だった。呆然とした顔で補佐の下の名前を口にする。
「匠……」
それから、懐かしい人に会ったとでもいうようにふっと表情を緩めて、補佐に一歩近づいた。
フローラル系のやや甘い香りが、私の鼻先をふわりとくすぐる。優し気な雰囲気のその女性によく似合うと思った。
「元気、だった……?」
細い声でそう言いながら、思わずといった体で彼女は補佐の腕に手を伸ばそうとした。
しかし、補佐は一見さり気なくその手を振り払った。
私は驚いて補佐の横顔を見つめた。
彼はすっと目を細めると、淡々とした感情を抑えたような声で彼女に言った。
「早く戻った方がいいんじゃありませんか。どなたかを待たせているのでは?」
彼女はびくっと肩を震わせて、その手を引っこめた。
「そうね。ごめんなさい……」
その顔に浮かぶのは、悲しさ、懐かしさ、恨めしさ、そして申し訳なさ。様々な感情が入り乱れて見える彼女の表情に、私は苦しくなった。
彼女は補佐から目を逸らすと、二人の間で立ち尽くしていた私をじっと見た。
「……この子は、あなたの彼女?」
補佐は無言だった。彼女を拒絶しているようにも見えた。
そんな彼に彼女は悲し気な目を向けた。
「今度は寂しい思いをさせないであげて……」
その一言に、補佐がわずかに息を飲む気配がした。
「元気で」
最後に短くそう言うと、その人は店の奥の方へ歩いて行った。柱の影になっていて気づかなかったが、そこにも席があったらしい。彼女の姿が消えた辺りにちらと見えたのは、たぶん、男物のジャケットだった。
「出ようか」
補佐の声に、私は我に返った。見上げると、無理に笑っているのが分かる固い表情で、彼は私を見下ろしていた。
「はい……」
私は頷き、荷物を手に取る。
その後すぐに、私たちは店を出た。会話はない。
補佐は重たい空気をまとっていた。心も頭もさっきの女性のことで占められているーーそんな様子がうかがえた。振る舞いはいつも通り紳士的で優しかったが、どことなく上の空だ。
私は前を行く彼の背中を見つめながら、少し距離を置いて歩いていた。
今日こそは自分の気持ちを伝えようと決めて来た。それができなかったのだから、言えなかったということを後悔していたはずなのだが、私の頭は今、他のことでいっぱいだった。
帰り際のあの出来事。補佐にあんな表情をさせたあの人は誰なのか。
けれど私はなんとなく察していた。
きっと昔の恋人に違いない――。
できれば、そのことを補佐の口から聞きたいと思う。けれど私に聞く権利はないし、あったとしても彼には聞きにくい雰囲気だった。
タクシー乗り場が見えてきた。
普段の補佐であれば、一緒に乗って送っていくよと言ってくれるだろう。けれど今夜は、私がタクシーに乗るのを見届けたら一人帰って行くような気がした。おそらく、複雑な気持ちを抱えながら。
このまま帰りたくないな――。
ふっとため息を吐き出した時だ。
補佐が足を止めて振り返り、ぼそりと言った。
「色々と、ごめん」
何に対しての謝罪の言葉なのだろうと思った。
どうして謝るんですか――。
出かかったその言葉を飲み込んだが、代わりの言葉を思いつかなくて口ごもる。
「いえ、あの……」
すると補佐は向きを変えて、私の正面に立った。
「もう少しだけ、時間ある?……話しておきたいことがあるんだ」
街灯と道沿いの店から洩れる明かりが、彼の表情を照らす。
いくらか穏やかさを取り戻したその顔を、私は真っすぐに見返し頷いた。そして決心する。
私も今夜、話そう――。