私の気持ちが落ち着き始めたのは、それから少したってからだった。
状況に慣れてきたからなのか、開き直ったからなのか。それとも、私の気持ちを察してくれている誰かがいるということに、安心したからなのか。宍戸が気づいてくれたことで、心がいくらか軽くなったのは確かだった。
そうなると今度は、宍戸から出された課題を思い出す。ほとんど強制的に渡された映画のチケットのことだ。忘れたふりをしようかとも思ったが、それは無理だと考え直す。彼を避け続けるのは不可能だ。
それ以前に、まずは山中補佐にどうやって近づけばいいのか。会社で会うのは難しいし、個人の連絡先だって知らない。こうなると、この前のような偶然を待つしかない。
チケットの期限まであと一か月ちょっと。やっぱりこのまま知らんぷりを決め込むか。でもそうなると、私自身、また結論を先送りするだろうことは目に見えている。
私はロビーを歩きながらぐるぐると考えていた。今日は久しぶりに外での用事を頼まれて、戻ってきたところだった。エレベーターホールの前で立ち止まり、苦い顔でエレベーターの到着を待っていると、背後から名前を呼ばれた。
「岡野」
ちょうど今私を悩ませている張本人、宍戸が立っていた。営業から帰ってきたようだったが、いつもペアを組んでいる先輩の姿が見えない。
「お疲れ」
宍戸はそう言って至って普通に私の隣に立った。
「お疲れ様です」
私は伏し目がちに挨拶を返す。内心ではもう宍戸のことを赦してはいたが、以前と同じように笑うのはまだ少しだけ難しかった。だから、口調もついよそよそしいものとなる。
「何だよ、その言い方。丁寧すぎて気持ち悪い」
どうしてあなたは普通なのよ――。
そう言いたい気持ちを抑えて、私は曖昧に笑う。
「……なんとなく?」
「やめてくれよ。なんだか背中の辺りがムズムズしてくるから」
「失礼ね」
「言い方、戻ったな」
宍戸に言われて私は口元を手で覆った。隣で愉快そうにくつくつと笑っている彼を見たら、ふっと肩の力が抜けた。こだわっている私の方がばかみたいだと思ってしまった。
「今日は外出してたのか?」
「お客様に資料を届けるように言われて、行ってきたのよ」
「こき使われてるな」
「仕事だからね。それにいい気分転換になるし、時々だったら悪くないと思ってる」
前のように会話できていることに、私は少しだけ安心した。けれど、まだわだかまりはあって、それ以上言葉を交わすでもなく、私たちはそれぞれにエレベーターの到着を待った。
私は宍戸の横顔をちらりと見て、少し考えた。
やっぱり階段を使おうか――。
このまま一緒にエレベーターに乗ったら、この間の話が蒸し返されそうな気がした。チケットのことを問われ、追い詰められた気分になってしまうのではないかと想像してしまった。気が重くなってきて、うっかりため息がもれる。
「なに?」
宍戸が不思議そうな顔で私を見た。
「やっぱり階段で行こうかな」
「え、十階まで?別に止めないけど。もう来るよ、エレベーター」