宍戸の機嫌を損ねるようなことを、何か言ってしまっただろうか――。

同期の後ろ姿を見送った私は、考え込んだ。この短時間の中での出来事を振り返ってみたが、これといって思い当たることはない。

今度会った時にでも聞いてみようか――そう思っている所に、補佐の声が聞こえた。

「俺も戻るよ」

「は、はい」

宍戸の謎の行動のことなど、いつまでも気にしてはいられない。気を取り直した私は補佐に訊ねた。

「部長にもコーヒーをお持ちしましょうか?」

「そうだね。申し訳ないけど、用意してもらえるかな?」

「はい」

私は頷き、コーヒーを準備してトレイに乗せた。

「私が部長のお席までお持ちしますので、補佐はどうぞ先にお戻りください」

「いや、俺が持って行くよ」

「でも」

補佐はにっこり笑うと、ためらっている私からコーヒーカップを取り上げた。

「これから部長の所に行くのは俺なんだし、その方が早いだろ」

その笑顔に負けて、私はこくんと頷いた。

「分かりました。では、よろしくお願いします」

「うん、ありがとう。手間かけたね」

にこやかにそう言うと、補佐は私の顔をじっと見つめた。

私は思わず体を引いた。こんなに近い距離で、そんな風に見ないでほしいと思った。せっかく落ち着いていた鼓動が、また暴れ出しそうになる。

「あの、何か……?」

「あぁ、いや、もしかして宍戸って……」

何か言い出すことをためらっているような補佐の様子に、私は首を傾げた。どうしてここに宍戸の名前が出てくるのか、不思議だとも思った。

しかし、補佐は私の怪訝な顔に気づき、苦笑したきり話題を変えた。

「……あ、そうだ。今日の会議資料の準備、大変だっただろう?お疲れ様」

「いいえ、そんなことは……」

資料の依頼者は補佐ではなかったが、こんな風に(ねぎら)いの言葉をかけてもらえたことが嬉しかった。こういった一言があるのとないのとでは、やる気というものが違う。例え厳しくても、彼のこういうところが慕われている理由の一つなのかもしれない――そう思った。無性に補佐に何か声をかけたくなって、私は言った。

「あの、補佐もお仕事、頑張ってください」

そう言ってしまってから、失礼な言い方だっただろうかと後悔した。彼は直属ではないけれど、その立場は上司といってもいいような人だ。「お疲れ様です」とだけ言った方が良かっただろうか……。

ごちゃごちゃと考えていると、補佐は私の心の中を察したかのように笑った。

「岡野さんも、今日一日頑張ってね」

「は、はい。ありがとうございます」

「それじゃあね」

補佐はそう言うとふっと目を伏せ、次に目を上げた時には私を真っすぐに見て言った。

「――またね」

補佐はくるりと背中を向けて、振り返ることなく給湯室を出て行く。

彼の後ろ姿が視界から消えた途端、私は深いため息をついた。

なんて密度の濃い朝だろう――。

去り際に補佐が残していった一言は、私の耳と心に甘い余韻を残した。それに飲み込まれないように私は高鳴る胸に手を当てながら、自分に言い聞かせた。

またの機会なんてあるわけがない。そんな日が来ることなんてない――。

けれど補佐に与えられた甘い動揺は、なかなか収まらなかった。私は表情を引き締めるのに手間取り、給湯室からなかなか出て行くことができなかった。