「具合はいかがですか?」
私は声をかけながら部屋に戻った。
しかし、補佐の返事は聞こえてこない。
見ると、彼は目を閉じて体をソファに沈み込ませている。
私は音を立てないようにマグカップを注意深くテーブルの上に置くと、足音を忍ばせて彼に近づいた。
寝ちゃってる……。
補佐は眼鏡をかけたまま、静かな寝息を立てていた。
そっと様子を伺って、私はほっとした。顔色が戻ってきている。
時計はもうすぐ午前二時になるところだったが、もう少し寝かせておいてあげようと思った。
ずり落ちていた毛布を拾って彼にかけ直しながら、私はあくびをかみ殺す。
三十分くらいたったら起こしてあげればいいだろう。
私にも睡魔の手は伸びてきていたが、お茶と雑誌でやりすごそうと考えた。そのためにはハーブティではなく、濃い目に淹れたコーヒーの方がいいかもしれない。そう思いついてキッチンへ行こうとした時だった。低いつぶやきが耳に入った。
「りょうこさん……」
心臓がトクンと鳴った。
彼の様子をそっと伺ったが、眠っている。
今のは寝言――?
私の聞き違いでなければ、それは身近なある人と同じ名前だった。まだ同一人物のものと決まったわけではないのに、私の心の中に、もやもやとした感情が広がり出した。
いったい誰の夢を見ているの?その人のことが好きなの?どうして私はそんなことを気にしているの?
会ったばかりでどんな人かもよく知らないのに。私よりはるかにずっと上の立場の人だというのに。
気づけば私は自問自答を続けていた。しかしそうこうしているうちに、床の上で眠ってしまったようだ。次に目覚めた時、私の体には毛布が掛けられていた。
「補佐?」
点いたままの照明の下、辺りを見回したが彼の姿はない。
「帰ったのね……」
起き上がろうとして、体のあちこちに地味な痛みを感じた。
「いたたた…」
首をさすりながら改めて部屋を見渡して、私はテーブルの上のメモに気がついた。
迷惑かけて本当にすみません
テーブルの上にあった部屋の鍵を借ります
鍵はドアポストに落としておきます
このお礼は後日改めて……
山中
読み終えて、私はため息をついた。
「お礼ね…」
社交辞令だと思った。互いの連絡先を知らないのだから、今後彼と個人的に会うことはないだろう。それに、とても忙しい人だと聞いている。彼の言う「お礼」の機会は来るはずがない。
ほんのわずかにでも変な期待をすることがないよう、私はそう決めつけた。
カーテンの隙間から窓の外が見えた。間もなく朝だ。夜の色が薄らいでいくにつれて、部屋に残っていた補佐の気配も一緒に薄れていくようだった。