こずえが、さして驚かず編集長に言う。編集長が足音をさせずに背後にいることは、こずえにとってはもはや何でもないことらしい。
「おう、まあな。売り上げがどうのこうの、といういつものやつだ。北条、どうした、何をうなってたんだ」
 ななみは閉口した。あなたがボツにした原稿、魔王のシロを目前にして、落ち込んでいるんです、とあからさまに言っていいものか。いや、言えない。
「編集長も意地が悪い。ななみ、悩んでるみたいです。原稿をどう書いたらいいか、わからなくて。右も左も分からない時に、シロ原稿返されるのは、キツイですよ」
「何言ってる、シロを食らって、イチからやり直して、やっと赤が入って、それからまた書き直して。それが下っ端の王道だろう。ぬるいこと、言ってんじゃねえ」
「そう言って、何度もバイトが逃げ出して行きましたよね。ななみは、雑用やらせても、よく動くし、重宝してるんです。逃げられると、わたしたちが地味に痛いんです。何か、ヒントくらいやってください」
 ななみは、こずえの言葉を聞いて、密かに感動していた。。そんな風に思ってもらえてたんだ、とじわっと目が熱くなった。
「…くそ。最近の奴は、すぐ辞めすぎなんだよ」
「いや、その原因を作ってるのは、編集長ですから」
 こずえがすかさずツッコミを入れる。今日のこずえはぐいぐい行くなあ、とななみはこっそり感心していた。たしかこずえと編集長は、年が近かったはず。それなりに気安さもあるのかも。
 ふーっと、編集長がため息をつき、コキコキと肩を鳴らした。
「あのなあ、北条。お前の場合、文章だとか技術面以前の問題なんだよ。選曲が悪い」
「え。選曲…?」
「確かに今月配信される新曲なら何でもいいっていう括りだった。だが、あれはだめだ」
「あれって…『マスクドキング』の新曲ですよ」
「知名度が足らん。うちで、『マスクドキング』を扱うつもりはない」
「そんな。だって、インディーズチャート1位なのに?太田さんや古賀さんはインディーズの中堅どころのレビューいつも書いてるじゃないですか。それなのに、何故『キング』はダメなんですか」
 新入りが編集長に物申すなんて、身分不相応と思っているななみだが、「マスクドキング」の話となれば、違ってくる。
「ダメなもんは、ダメだ。他にも候補曲、あるだろう。そっちで再提出。明後日までだ。どうだ、優しい編集長様だろう」
 もう一度、ぱこ、と頭をはたいて自分のデスクの方に向かって行った。
「『マスクドキング』のことは、書けない…?」
 予想外の方向から飛んできた矢に、しっかり刺されたななみは、呆然としていた。

 夜。ななみは、バー「reef」のカウンターの内側で、グラスを磨いていた。
「…はあ」
 朝の「魔王のシロ」もため息ものだったが、さらに難題がやってきたため、大きなため息が出てしまった。
「ねえ、ねえ。そんな大きなため息、話聞いてくださいって言ってるように見えるけど」
 かよが、皿にチーズを並べながら、言った。かよもななみも、黒いシャツ、黒いパンツを身につけている。バー「reef」のユニフォームなのだ。
 ななみは、週二回、このバーでアルバイトをしている。従妹のかよは週五回。残業のあるななみと違って、昼間コールセンターで働いているかよは定時にあがれる。そのため、多めにシフトに入れるのだ。時間は、18時から11時まで。ふたりともダブルワークの身なので、店長の厚意で
11時あがりにさせてもらっている。
 客層は高齢者が多く、若者はあまり来ない。静かなバーだ。
 磨いていたグラスをこん、とカウンターに置き、ななみは言った。
「ごめん、ため息の理由、聞いてください…」
「はいよ。どうした」
「新曲レビュー、ボツった」
「え?あんた、『マスクドキング』書くってはりきってたじゃん」
「そうだよ…ボツだけでも痛いのに、『キング』はもう、扱っちゃ、ダメだって」
「ダメって、書くなってこと。無理じゃん。あんた、『キング』の推しなのに」
 ななみは、涙目でうなずいた。
 ななみは、『マスクドキング』のファンになって三年になる。
 二十歳の夏休み、ななみは、バイトして稼いだお金をつぎこんで東京に遊びに来ていた。すでにロック好きだったので、下北沢のライブハウスであれもこれも見ようと意気込んでいた。
 かよはまだ上京していなくて、一人だった。地元の福岡の友達に、ロック好きがいなくて、少し寂しかったが、ライブハウスで溢れるように襲ってくる音楽に身を包まれていると、そんなことはどうでもよくなるのだった。
 次のお目当てのライブハウスを探している内に、道に迷ってしまった。
 まったくわからない場所に困惑して、キョロキョロしていると、ジャン、とギターの音がした。
 何故かその時、とてもその音が大切なものに聴こえた。
 聴かないと絶対後悔する。そんな想いがわいてきて、ひっぱられるようにして、音の鳴る方に歩いて行った。
 ぱらぱらと、人が集まっている。路上ライブにしては、多い人数だ。おそるおそる近づいて行くと、ギターを抱えた男性一人、マイクを持った男性一人が、チューニングをしているところだった。
 二人とも長身で、足が長い。ぴたっとした細身の黒のパンツに、白いシャツを着ていた。でも、まっさきに目をひいたのは、顔の真ん中にあるアイマスクだった。目のところがくりぬかれているタイプのマスクなので、二人の顔立ちはわからない。しかし、わずかに見える目が切れ長で、美しく、マスクを外してもイケメンだろうと思わせた。
「恰好いい出で立ちだな…」
 思わず、ななみは呟いた。路上でやっているくらいだから、知名度は、まだまだだろう。でも、何か、見ている客をわくわくさせるような匂いが、目の前の二人にはあった。
 やがてギターがかき鳴らされた。あ、MCないんだ、と思った次の瞬間、すごいカッティングのギターの音が響き、目を見開いた。
 そして、間髪入れずに、ボーカルが歌いだした。
 その声は、高くもなく、低すぎでもなかった。伸びやかで、少し甘さがあった。夕闇の空気をさあっと引き裂くような鮮烈なものが、届く歌声を豊かなものにしていた。
「この声、好き…」
 そう意識したら体に電流が走ったようになった。夢中で前のめりになって聴き入った。曲調もななみが好きなパンクテイストだった。
 ななみは、いろんなロックバンドを見聴きしていたけれど、見た目も声も曲調も、全部満点で好きなバンドはいなかった。しかし、このバンドは四曲やったけれど、四曲とも満点だった。
 この二人組、すごい。
 特に、ボーカルにななみは釘付けになっていた。いつまでも歌っているところを見ていたい、そんな気持ちにさせた。
 演奏が終わり、観客たちから、大きな拍手が贈られた、二人は、びしっと足をそろえ、深くお辞儀をした。アイマスクに、白いシャツに、黒のパンツ。ロックのくずれた感じではなく、スタイリッシュさを大事にしているのが伝わってきた。
 機材を片づけだすと、徐々に客はひいていった。
 ななみはロック好きでライブも好きだが、出待ちなどはしたことがなかった。いつもだったら、いい演奏だったな、と思って帰るところだ。
 でも、今日はそれをしたらだめだ、と思った。
 このままでは、バンド名すらわからない。もうこの二人組に会えることは、ないかもしれない。
 チャンスは、今しかない。
「あの、すみません」
 マイクを片づけていたボーカルの男性に近寄った。ミュージシャンに声をかけるなんて初めてだったので、心臓がばくばくした。
 ボーカルの足元にはCDがダンボールに山積みになっていて、一枚1000円と書いた紙が貼られていた。
「CD、くだ、さい」