6.狐の嫁入り
 
 先日、ようやく二人で会う時間が取れ、悠一朗と雪乃は一緒に夕食を取り、隣接市にある夜景の見える場所まで車を走らせ、いつ籍を入れるか話し合いをしていた。
 すれ違う車のヘッドライトの光が、悠一朗の顔を点々と照らす。
 左手で口元を抑えながら運転する悠一朗の横顔に、惚れない女はいないだろう。
 
 (この人が、もうすぐ私の旦那さんになる…。悠一朗さんは、本当に私なんかで良いのかな…)
 
 雪乃は悠一朗の麗しい横顔を見ながら、そんな事を思っていると、落ち着いた美声が耳に入ってくる。
 
 「どうした?」
 
 「い、いえ。何も…」
 
 雪乃は目線を進行方向に向け、無駄な思考と共に瞼を閉じた。
 
 「俺との結婚に不安がある?」
 
 「い、いえ、そんなことは…」
 
 「不安そうだけど。着いた。少し降りないか?外の空気吸いたい」
 
 ここは、夜景もだが星空もよく見える。空気も澄んでいて、よくカップルが訪れている穴場だ。車を降りて、人気のない所まで、雪乃は悠一朗の後ろについて歩いていく。
 
 「俺はいつ籍を入れようが構わない」
 
 縁談の時とは違う、少しクールな悠一朗の姿が本来の姿なのだろう。何か物思いにふけているような籠った声が、背中から聞こえた。
 「でも…」と言って、悠一朗は立ち止まって雪乃に振り向く。
 
 「お前のその不安を取り払わないと、入れられないだろ…」
 
 雪乃の顔に悠一朗の手がそっと伸びる。
 
 「どうしたら、不安を取り除ける?」
 
 雪乃は揺れ動く悠一朗の瞳を見つめ、本当に私でいいんですか…、と消えそうな声で尋ねた。
 
 「いいもなにも…」
 
 悠一朗は、顎をクイっと持ち上げ、雪乃の口元にそっと唇を落とした。悠一朗の柔らかい唇から、ほんのりとミントの香りが鼻腔を通り抜ける。
 
 「これが俺の答えだ」
 
 悠一朗の顔を見上げると、その横から横線を描くように流れ星が流れた。雪乃は、動転しそうな感情をグッと抑え、優しく見つめてくる悠一朗をもう一度見る。
 
 「まだ不安か?」
 
 雪乃は首を激しく横に振る。雪乃の不安は一気に吹き飛び、俯きながら悠一朗の服をそっと引っ張った。
 
 「じゃ、すぐにでも入れよう」
 
 雪乃は頬を紅く染めながら、大きくコクっと頷いた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 迎賓館の庭園で美しく咲き誇る紫陽花に、水が滴り落ちる。光を帯びた水滴は、星屑のように輝きを放ち、地面へと消えていく。
 
 先日の話し合いから、悠一朗と雪乃はすぐに籍を入れ、正式な夫婦となった。そして今日、その婚儀を、城下町にある迎賓館で執り行うことになった。本来ならば、盛大な結婚式を挙げるべきなのだろうが、色んな目があることを考慮し、身内だけの簡素な神前式にした。
 
 雪乃は急遽、綾美の福原呉服店で用意してもらった淡いベージュの最高級の掛下に、金の刺繍をあしらったレース地を合わせた、落ち着きのある打掛を羽織っていた。
 
 「まぁ〜新婦様、本当にお美しいです。さぁ、そろそろ参りましょう。新郎様が外でお待ちでらっしゃいます」
 
 雪乃は緊張のあまり、か細い声で「はい…」と返事をする。日頃から着物に慣れているとはいえ、掛下の重さは別物。雪乃はいつも以上に歩幅を小さくし、ゆっくり悠一朗の元へ向かう。
 黒五つ紋付きの羽織袴に身を纏った悠一朗の姿が見えてくる。雨が酷く降り注ぐ窓辺を眺めている悠一朗の顔は、憂いを帯びているように見えた。
 
 「お待たせいたしました…」
 
 雪乃は、恐る恐る悠一朗に声をかける。
 悠一朗は、憂い顔を一瞬で隠し、微かな笑みを滲ませた。
 
 「行こうか」
 
 「はい…」
 
 悠一朗と雪乃は隣に並び、参進の儀の列に沿って、開かれる扉の向こうに足を踏み出した。
 
 
 一連の儀式が終わり、簡単な会食を済ませ、雪乃たちはこれから田上家に向かう。雪乃と悠一朗は同じ車に乗り、茶屋町の大通りに着くまで、少しだけ気を休めた。
 
 「緊張した?」
 
 「は、はい…。盃を持つ手が震えました」
 
 「ははっ、そうか。あともう少しで終わりだから、家に帰ったらゆっくり休もう」
 
 悠一朗は、そう言って雪乃の手を握る。初めて触れられた手に、また緊張が走る。悠一朗の包容力のある手は温かく、がっしりとした職人の手だった。
 
 (離さず、これからもずっと握っていてほしい…)
 
 そう思いながら、雪乃はそっと悠一朗の手を眺める。
 
 
 雪乃は色打掛のまま、悠一朗に手を引かれ、茶屋町を練り歩く。趣きのある景色が、悠一朗と雪乃をより一層引き立てていた。観光客や町屋のお客さんたちが、待っていたと言わんばかりに、一斉に振り向く。
 
 『Congratulations!』
 
 『わぁ〜素敵ぃ〜』
 
 『おめでとうございます』
 
 『ゆきちゃん、おめでとう〜』
 
 『悠一朗、カッコいいじ〜』
 
 沢山の祝福の言葉をかけられ、悠一朗と雪乃は商売笑みで頭を下げた。外国人観光客からはカメラを向けられ、写真撮影に応えたりもした。
 
 「雪乃ぉ〜、もう泣いちゃう…私。おめでとう。本当に似合ってるよ〜」
 
 福原呉服店の店先で顔を出していた綾美は号泣していた。悠一朗の後輩でもある斗真も目を潤ませている。
 
 「泣くなよ、斗真」
 
 「いやっ。泣いてないっすよ〜。でも、なんか感慨深くて…。悠一朗先輩、おめでとうございます」
 
 「ありがとう」
 
 「悠一朗さん!雪乃のこと、よろしくお願いしますね」
 
 悠一朗はにっこりとした顔で頷き、また雪乃の手を握る。雪乃は綾美に手を振り、田上家のある四区へ進んでいく。
 
 しかし、祝福の空気は一変。田上家に近づけば近づく程、不穏な空気が流れてくる。
 
 見たくないものを見るかのような視線。窓をピシャッと閉めるような音。悠一朗との結婚をあまりよく思っていない人たちがいることを、雪乃はこの日初めて知らされた。
 
 「気にしなくていい」
 
 握られていた悠一朗の手に力が入る。悠一朗からは笑みが消え、追いやるかのように目を据わらせていた。雪乃も悠一朗の手を強く握り返し、田上家まで歩みを進める。後ろにいた雪乃の両親は控えめにしていたが、社長である善一朗は堂々と歩いていた。
 
 「お待ちいたしておりました。皆さま、おかえりなさいませ」
 
 お手伝いのウメの言葉に習い、先に帰っていた凛子、酒造の関係者等が、門の前で頭を下げながら出迎えてくれた。
 
 「さぁさぁ、お足元が悪いですから、中にお入りくださいませ」
 
 大きな敷地内にある母屋の屋敷に案内された雪乃は、とんでもない富豪の御曹司に嫁いだのだと、改めて実感する。手入れされている庭、屋敷の大きさを見て、雪乃は息を呑んだ。
 
 簡単な挨拶を交わし、祝酒を振る舞われた後、全員で雪乃の両親と弟を見送る。
 
 「頑張れよ!雪」
 
 「お父さん、お母さん、ありがとう。旬も」
 
 「では、娘をよろしくお願いいたします」
 
 そう言って、順一と由美子と旬は、善一朗と悠一朗たちに深々と頭を下げ、長谷川庵へ帰っていった。

 善一朗と悠一朗は、先に着替えると言って中に入っていく。
 
 「では、雪乃さんもお着替えいたしましょう」
 
 「は、はい…」
 
 凛子の声に反応した後、雪乃はふと外を眺めた。酷く降り続いていた雨が小雨に変わり、太陽の光で虹が出ている。
 
 「狐の嫁入りでございますね」
 
 「そうですね。とても美しいです…」
 
 今日という日を忘れたくないと思った。どんな辛いことがあっても、握ってくれていた悠一朗の手と、あの日唇を重ねた思いを信じたい…。雪乃はそう思いながら虹を眺めた。
 
 「さぁ、雪乃さん。お着物が濡れてしまいます。中に入りましょう」
 
 「はいっ」
 
 凛子に誘導され、雪乃は初々しい表情で、田上家の敷居を跨いだのだった。