4.留紺の縁談
 
 その日は、麗らかな春の陽気だった。山から降りてくる風が生温く、ほんの僅かに桜の香りを放って頬を伝っていく。
 
 「準備できたか?」
 
 「あぁ。もう終わる」
 
 悠一朗は、所縁のある呉服屋で仕立てた留紺の着物に、袖を通していた。
 
 「旦那さま、坊ちゃん、こちらを…」
 
 お手伝いのウメが、この日の為に用意しておいた手土産を渡す。田上酒造でしか買えない、最上級の酒類を包んだものだ。
 
 「よい縁談でありますよう、願っております」
 
 もう一人のお手伝い・凛子が、ウメの横に立ってゆっくりと頭を下げた。
 
 敷地の門で待っていたタクシーに乗り、善一朗と悠一朗は、兼七園の近くにある料亭・すずしま屋へ向かった。
 
 「今日は、留紺にしたんか」
 
 「別に、深い意味はない」
 
 親父に本心など言わぬと、悠一朗は窓際で頬杖をつきながら、タクシーの車景から流れていく桜並木を眺める。
 
 (これ以上はない…)
 
 その言葉通り、悠一朗は『これ以上濃くならない紺』という意味を持つ留紺を、自らの意思で選んだ。
 
 (最後でいい…。もう最後にしたい…)
 
 悠一朗の辟易とした感情は、揺れ動く虚な目に滲んでいく。もうどうにでもなれ、そんな投げやりな気持ちが、喉のすぐ側まできていた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 一足先にすずしま屋に到着した長谷川一家たちは、夢見草の見れる広々とした和室に案内された。
 開けられた障子窓から、ふんわりと舞い込む暖かな風が、縁談に相応しい趣きを感じさせる。
 雪乃は、淡い黄色地に、松竹梅と桜が描かれた訪問着を纏い、派手に着飾らず、シンプルな簪を一本差し込んだアップヘアで正座をしていた。
 変な緊張で、手汗がやばい…。雪乃は今すぐに、ここを出て行きたいという気持ちを抑えながら、痺れる足を小刻みに動かす。ふと、順一と旬に目をやると、緊張しているのか、神妙な面持ちで無言を貫いていた。
 
 (昨日まで、あんなに騒ぎ立ててたくせに…)
 
 雪乃はそんなことを思いながら、障子窓から夢見草を眺める。
 
 (綺麗だなぁ…。あの下で食べる三色団子は美味しいだろうなぁ〜)
 
 和菓子屋の娘らしい気の緩んだ妄想をしながら、口の中に増えていく生唾を飲み込む。
 
 「雪、いらっしゃったよ…」
 
 隣で大人しく座っていた由美子に突かれ、雪乃はまた姿勢を正した。
 
 背後にある障子がさーっと開き、畳を踏む足音が近づいてくる。
 
 「いやぁ〜、お待たせして申し訳ないね〜」
 
 太々しくも、どこか物腰の柔らかい男性の声が、斜め後ろから聞こえてくる。雪乃は咄嗟に頭を下げ、紺色の着物を着た男性の足元に目を遣る。
 
 「まぁまぁ、頭を上げてくださいな〜お嬢さん」
 
 雪乃は恐る恐る頭を上げ、下からゆっくりと、目の前に座る男性を見る。
 噂通りの眉目秀麗。目の奥に吹き込んでくるぐらいの破壊力を持ち合わせた、国宝級の男。
 目の前に姿勢を正して胡坐をかく悠一朗と、軽く会釈を交わし、雪乃は何とか平常心を装う。
 
 「はじめまして。田上悠一朗です。この度は、このような場を設けていただき、ありがとうございます」
 
 視線が外れ、聞こえてきた声は、落ち着きのある甘みを含んだ美声だった。まるで、一線で活躍している声優のような。
 順一と由美子と旬は慌てふためきながら、善一朗と悠一朗に挨拶を交わす。
 
 「ほら、雪…」
 
 「あっ…。長谷川雪乃と申します。よろしくお願いいたします」
 
 由美子に腕を突かれた後、雪乃は玉を転がすような声を捻り出し、もう一度頭を下げた。
 
 「まぁまぁ、皆さん、そんな畏まらず。楽しく始めましょうや〜」
 
 そんな陽気な善一朗の言葉とともに、悠一朗と雪乃の将来を決める縁談が、穏やかに始まった。
 
 
 
 「こないだ、会ったね」
 
 料理に手を伸ばしていると、悠一朗が隣に座っていた旬に、優しく問いかけた。旬は、頭を掻きながら「いやぁ〜、また悠一朗さんにお会いできるだなんて〜、あはははっ」と照れくさそうに話す。
 
 「先日のお通夜でお会いしたんです。お父様と弟さんに」
 
 「あっ、そうだったのですね。弟に粗相はありませんでしたか…?」
 
 「何だよ、粗相って。俺がする訳ねーじゃん」
 
 「うるさい…」
 
 「なかったですよ。そんなことは」
 
 悠一朗の視線がまた雪乃に向かう。少しだけ緩んだ顔はどこか幼く、孤独や寂しさを滲ませているようにも見えた。
 
 何か話したい。何か話さなければ…と、雪乃は必死に思考を巡らすが、こういう空気に慣れていないせいか、頭に何も浮かばない。とにかく運ばれてくる食事を口に含み、場を繋ぐことしかできなかった。
 
 「お仕事は?」
 
 助け舟を出すかのように、悠一朗が箸を休めながら雪乃に問いかける。慌てて口の中を胃の中へ流し込み、雪乃は口を開く。
 
 「あ、家業の長谷川庵で接客をしております」
 
 「そうですか。いつもお着物で?」
 
 「は、はい…」
 
 「色々と慣れてらっしゃるんですね」
 
 (色々とは何だろうか…。人に?着物に?)
 
 そんな事を思いながら、雪乃は、悠一朗の箸使いや着物の袖を上げる仕草に目を遣る。行儀の悪さは微塵も感じない品のある動きに、思わず見惚れてしまう。
 
 (悠一朗さんの方が、色々と慣れてらっしゃると思うんだけどなぁ…)
 
 雪乃の思考を遮るかのように、旬が悠一朗にお酌をしながら質問をする。
 
 「悠一朗さん、姉の印象はどうっすか?」
 
 「印象?そうだね、落ち着いてらっしゃる方だなと思ったよ。あ、ありがとう。君は?注ごうか?」
 
 「い、いえいえ。僕は自分で」
 
 「いいよ、はい」と言いながら、悠一朗は旬に酒を注ぐ。旬とのやり取りを見て、年下に優しいんだろうな…、と雪乃は思った。
 
 「こんな姉ですけど、良いとこはあるんで…」
 
 「ん?どんな?」
 
 「ん〜、我慢強いし、優しいっす。どんな時も」
 
 雪乃はきょとんとした目で、旬を見る。いつも小競り合いが発展するのに、まさか旬の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
 
 「ま、たまにうっせーすけどね、あはははっ」
 
 「ははっ。そうなんだ」
 
 悠一朗の顔が綻ぶ。雪乃は俯きながら、旬に「一言多いの」と照れ臭く言う。
 
 「仲がいいんですね」
 
 悠一朗はどこか羨ましそうに微笑んでいた。
 
 
 食事が一通り終わり、そろそろお開きになろうとしていた時「雪乃さん、ちょっといいかな」と、物腰の柔らかい声が耳に入った。聞こえた方向に顔を向けると、善一朗がゴホっと咳払いをしながら、改まって話を始めた。
 
 「見ての通り、田上の人間はこの私達二人しかおりません。妻は早くに亡くなり、今は倅と二人で酒造を切り盛りしています。倅を支えてもらいたいのと同時に、うちの商いのことも、理解を深めてもらいたいと思っています。もちろん、すぐにとは言いません。時間をかけて、田上家に染まってもらえればそれで。もし、前向きに考えてもらえるのであれば、我々を含め、うちの手伝いの者、商いに関わる者が、雪乃さんを全力で支えます。…どうかな?雪乃さん。前向きに考えてはくれないだろうか?」
 
 善一朗が三日月のような目をして盃に手を伸ばす。 雪乃は息を呑む。優しさの裏にある、重みを含めた言葉の数々に、見えない圧を感じた。悠一朗はじっと雪乃を見つめ、口をつぐんでいる。
 
 雪乃は目を泳がせながら、懸命に言葉を選ぶ。
 窓から入り込む温かい風の音だけが、静かに耳を通り抜けた。
 
 (断れば、もう二度と田上酒造からのご縁は貰えないだろう…。目の前に居る悠一朗さんに会う事もないだろう…。このまま一生独身でいるか…、それとも悠一朗さんとの人生を選ぶか…。どうする…私。でもここで、後者を選ばないと…私は…。私は…一生後悔するかもしれない…)
 
 雪乃が意を決して口を開こうとした瞬間。
 口をつぐんでいた悠一朗が、静かに切り出した。
 
 「僕は、雪乃さんとの縁談をお受けしたいと思います」
 
 悠一朗の真剣な眼差しが揺れている。雪乃と悠一朗の間に、柔らかい風が通り抜けた。
 
 「…私も。私も、悠一朗さんとの縁談をお受けしたいと思います…」
 
 そう言って、雪乃はゆっくり頭を下げた。
 
 (これでいい。これでいいんだ…)
 
 「では、よろしくお願いします。雪乃さん」
 
 一瞬見せた悠一朗の安堵した顔が、どこかで見た誰かの面影に似ていると雪乃は思った。
 
 両親たちの目も安堵と嬉しさで輝いている。雪乃も緊張の糸が途切れ、そっと胸を撫で下ろした。
 
 こうして、正式に縁談が決まった田上家と長谷川家は、新しく始まる二人の門出を祝い、悠一朗と雪乃はお互いの連絡先を交換して、お開きとなった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 「ねぇ〜恭ちゃん。悠ちゃん、まだ結婚したりしないよね〜?」
 
 悠一朗の幼馴染、藤川恭士(ふじかわきょうじ)が経営する割烹ふじかわで、仕事を終えてぐったりとした伊藤由真(いとうゆま)が、ビールを煽っていた。
 
 (また、悠一朗のことか…。懲りねぇー女だな…)
 
 「さぁーな…。あいつ、いつも事後報告だから。まだせんと思うけど。何で?」
 
 「ん〜何となく…」
 
 「…まだ好きなん?」
 
 由真は黙って、ビールの泡が一つ一つ消えていくのを眺めている。そんな姿をやれやれと見ながら、恭士は厨房のカウンター越しから「はい」と、佃煮のお通しを渡した。
 
 「悠ちゃん…、全然相手してくんないんだもん…」
 
 「あいつ、女嫌いだからなー」
 
 「でも、好きな人いるんでしょ?」
 
 お決まりの断り文句を言ったのだろうと、恭士は思った。〈好きな人がいる〉と言えば、女は去っていく。悠一朗はよくそう言って、色恋の甘い誘いを断っていた。でも、密かに想いを寄せている女性がいることは本当だ…。
 
 「さぁーな…。まぁ…、あいつと付き合うのは、難しいんじゃねーか」
 
 「何でぇ〜。恭ちゃん、手伝ってよぉ〜」
 
 猫のような甘えた声でせがんでくる由真を、恭士は怪訝そうに見る。こういう他力本願でめんどくさい女が、悠一朗の周りには集まる。
 
 (あいつも大変だな…)
 
 そんな事をつくづく思いながら、恭士は包丁を握る。
 
 「まぁ、今日は程々にしとけよ〜。ヤケ酒して潰れても、俺は送れねーから」
 
 「ダイジョウブぅ。歩けなくなったら悠ちゃん呼ぶからぁ〜」
 
 「あのなぁー」と、恭士はまた呆れながら、由真の話に付き合うのだった━︎━︎。