8.町屋行脚・桜舞庵
 
 
 田上家へ嫁いでから数週間が経ち、母屋の庭先では半夏生が揺れていた。少しずつ、暑さを感じるようになり、水色の薄手の訪問着を着た雪乃は、田上家の玄関でじんわりと額に滲み出てくる汗を、ハンカチで拭っていた。
 
 「雪さん、今日はご挨拶回りと花月会の茶会ですね」
 
 「はい。凛子さんと一緒に行って参ります」
 
 留守番のウメは、挨拶回り用の菓子折と茶会へ持っていく長谷川庵の茶菓子を雪乃に渡す。
 
 「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 
 そう言って見送られた雪乃と凛子は、四区の町屋へ歩みを進めた。
 
 本来なら、町屋の挨拶回りは悠一朗と行くべきなのだろうが、悠一朗は新規取引先の会合で他県へ出張中の為、代わりに凛子が付き添ってくれることになった。
 
 「さぁ〜て、どこから回りましょうかね…」
 
 凛子は少し顔を歪ませている。聞くと、悠一朗との縁談が破談になった名家が四区には沢山いるらしい。
 雪乃も少し表情を曇らせる。
 そういうことか…、と先日向けられた目線に酷く納得した。
 
 裏通りを歩いていると、さっそく耳を塞ぎたくなるような会話が聞こえてくる。
 
 『ほら、あの子。長谷川庵の…。田上の若旦那とこに嫁いだんやって』
 
 『聞いた、聞いた』
 
 『末吉さんとこのお嬢さんの方が、良かったんにね〜』
 
 『ちょっと、あんた聞こえるって〜』
 
 わざと雪乃に聞こえるように話をする年配の女性たちに、凛子は満面の笑みで追いやる。
 
 「雪さん、気にする必要はありませんよ。堂々としてらしてください。田上家の人間は全員、貴方様の味方ですから」
 
 凛子の頼もしい言葉に背中を押され、雪乃は小さく頷く。
 そして二人は「柏木」という立派な表札を掲げている門を潜った。
 
 「良い方もいらっしゃるので、ご安心を」
 
 凛子はそう言って、玄関のチャイムを鳴らした。
 
 「は〜い。あんら〜、来てくれたんやね〜。どうぞ、入んまっし〜」
 
 奥から出てきたのは、古くから麩の販売店を経営しているご婦人、柏木のり子だった。玄関先で話すのも何だからと言って凛子と雪乃は客間に通された。
 
 「こちら、田上のお得意様の柏木様。のり子夫人のご主人が、旦那様と同級生なのです。ですから、坊ちゃんがお生まれになる前から、田上家とはお付き合いがございます」
 
 「そうでしたか。あ、柏木様、ご挨拶が遅れました。田上雪乃と申します」
 
 「まぁ〜、素敵なお嬢さんだこと。坊ちゃんも、ようやく身を固めたんやね〜。長谷川庵の子やんね?長谷川庵の茶菓子、よくいただいてますのよ」
 
 物腰の柔らかいおっとりとした声が、雪乃たちの居心地を良くさせた。
 まだまだ色々と話をしたいのだが、このあと花月会の茶会を控えている。名残惜しいのだが、早々にお暇して向かわなければならない。
 
 「のり子夫人、私たちこのあと茶会がございまして…。また改めてゆっくりお話しさせていただければと…」
 
 「あらそうなの〜残念ね。雪乃さん、またゆっくりいらしてね」
 
 のり子に頭を下げながら、凛子と雪乃は柏木家を後にし、数軒の簡単な挨拶回りを終えて、茶会が開催される兼七園の方面へ向かった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 今日の茶会は、兼七園の中にある広い茶室を貸し切って開催される大きな茶会だ。花月会は町屋の婦人たちが殆どだが、今日は大きな茶会ということもあり、その近辺の茶道会も多く集まる。
 尚のこと、雪乃は緊張していた。いつもの小さな茶会ではないことと、長谷川雪乃で行くのではなく、田上雪乃として行かねばならないことが雪乃の胸を騒つかせる。
 
 (何もないといいんだけど…)
 
 そう思いながら、雪乃は凛子と一緒に兼七園の中に入り、広い茶室のある桜舞庵(おうぶあん)まで参道の砂利道を歩いていく。
 
 「雪さん、私がついていますから。大丈夫ですよ」
 
 「凛子さん…」
 
 凛子の目は遠くの一点を見つめるかのように凛々しく、頼もしかった。日陰に顔を落とした雪乃は、またハンカチで額の汗を拭う。
 
 桜舞庵の入り口に入り、凛子と雪乃は受付を済ませ、茶の間に足を踏み入れた。
 そこでも、じわじわと見たくないものを見るような視線が雪乃を襲う。
 
 (毅然としていなきゃ…)
 
 『あの子が噂の…』
 
 『えぇ…。そうみたいですね…』
 
 聞こえるようにヒソヒソと口元を隠して話す婦人。苦笑いをする婦人。挨拶をしても無視をする婦人。
 数々の嫌味に耐えながら正座をしていると、悠一朗と一年前に縁談をしたという、金家美香(かねやみか)が格式の高い黒の訪問着を纏った姿でズカズカと現れた。
 座っていた雪乃の容姿を見下ろしながら、美香は立ったまま言葉を吐いた。
 
 「あんたが悠一朗さんのお嫁さん?」
 
 「……」
 
 雪乃は黙り込み、静かに頭を下げる。
 
 「何そのダサいお着物。饅頭でも販売しに来たの?」
 
 「…おやめください金家様」
 
 隣に座っていた凛子が、雪乃を庇うかのように雪乃の前に手を置く。
 
 「ふんっ。こんな女のどこがいいの…」
 
 そう言って、美香は「開けてちょうだい。そこ私の席よ」と上座に近い場所を婦人たちに無理やり開けさせ、何食わぬ顔で正座をした。
 
 傲慢な女性で有名な美香に、婦人たちも冷や汗をかいている。
 場の空気が凍りついていると、それを一気に溶かすかのように主催者の富林菊子と藤柴屋の芸妓・紫乃が颯爽と現れる。
 
 (紫乃さん…)
 
 紫乃は、雪乃に向かってニッコリと笑みを見せる。
 長谷川庵のお得意様であり、小さい頃から可愛がってもらっていたお客様の一人だ。
 
 「皆さま、どうもお待たせいたしました。何だか空気が不穏ですが、何かおありになったの?」
 
 菊子はおっとりした声で、婦人たちの顔を見ながら全体を見回す。婦人たちは、皆んな黙り込んでいる。静まり返ったところに、先程の美香が軽々と口を開いた。
 
 「いいえ。何も。ちょっと、物珍しい人がいてその方のお着物に笑ってしまっただけです」
 
 「物珍しい人?ここには、顔馴染みばかりですが?」
 
 「やめましょう、菊子様。お相手にするだけ無駄です」
 
 「…っ」
 
 紫乃の言葉に美香は何も言い返せなかった。
 当然だ。この界隈では名を馳せるベテラン芸妓。
 お淑やかで雅な紫乃に、誰も口出しなどできない。 
 町屋では「敵にしないほうがいい女」という名が一人歩きしているぐらいだ。
 
 「そう。では、気を取り直して始めましょう。今日は、長谷川庵の茶菓子ですわね。雪さん、どうぞ皆さんにお配りになって」
 
 下座から一部始終を見ていた雪乃は菊子にそう言われ「あ、はい…」と言って、縦に均等に座られている婦人の前に、長谷川庵の鵲の橋(こし餡を包んだ葛もちに金箔を散らしたもの)を置いていく。
 
 先程、罵られた美香の前に雪乃は恐る恐る茶菓子を差し出すと、やはり一言嫌味を言われた。
 
 「長谷川庵の売名行為?」
 
 「…いえ。そういう訳では…」
 
 「下げてちょうだい。私はこんなのいただきたくないわ」
 
 雪乃は口をキュッと結び、黙って美香の前から茶菓子を引いた。
 
 「わ、私も…下げてくださる?」
 
 「わ、わたくしも…」
 
 美香の隣に座っていた何人かの婦人たちも、美香の顔をチラチラと伺いながら雪乃に言った。本心ではなさそうだが、何か事情があり、美香の手前手をつけられないのだろうと雪乃は察した。
 
 黙って見ていた菊子は、目を瞑りながら溜め息を吐く。その隣で見ていた紫乃の目は、的を射るかのように、長谷川庵の茶菓子を断った美香たちの方をしっかりと捉えていた。
 
 「では、皆さんいただきましょう」
 
 菊子の声で、婦人たちは一斉に茶を啜り始める。
 雪乃は茶を啜る気分を失い、何も手をつけず窓際から揺れる木々を眺めながら、時間が過ぎていくのを待った。
 
 「今日のお抹茶は味気ないですね。茶菓子の問題だからですか〜?」
 
 美香がまた場を凍りつかせる。
 
 「そ、そうですわね…」
 
 「違う所の茶菓子が良かったですわね…」
 
 美香に気を遣って、次々と便乗する婦人たち。
 
 「それとも…あそこに座ってる人がこの空気を悪…」
 
 美香が続けようとした途端、パンッと両手で手を叩く音が茶室に響いた。音がした方に目を向けると、菊子の両手が顔先でピタッと止まったまま動いていない。
 
 「いい加減にしなさい。まったく、黙って聞いていたら茶会を開いている女性たちとは思えぬ発言の数々…。耳障りも程々にしていただきたい」
 
 菊子の目から恐ろしい憤りを感じた。
 「美人は怒ると怖い」というのは正にこういうことを言うのだろう。
 菊子は大きく息を吐いて口を動かした。

 「雪さん、大変美味でございました。いいですか、皆さん。長谷川庵は、この界隈では上等な和菓子を作られている老舗でございますよ。長谷川庵を侮辱するということは、この町のことも侮辱することに等しくってよ?言葉や態度には十分、お気をつけくださいな。金家さんたち」
 
 『……』
 
 美香は恥ずかしそうに俯き、雪乃に酷い視線を向けていた婦人たちも俯いていた。
 雪乃は深々と、菊子に頭を下げる。
 
 「はー。残念ですが、今日はもうお開きにいたしましょう。こんな空気では身が保ちませんわ。では、空気を悪くした方々はどうぞお引き取りください。雪さんたちは残って」
 
 菊子はそう言い放ち、残りの茶を啜った。
 
 申し訳なさそうに婦人たちが茶室から出て行く。
 菊子に頭を下げにくる婦人たちもおり、菊子はそれを完全に無視していた。何度も言うが、やはり美人は怒ると怖い。
 その一部始終を見ていた矢先、美香が立ち上がり、血相を変えてこちらに向かってくるのが分かった。美香の姿を見て凛子が雪乃を庇うかのように「雪さん!」と声をかけるが、遅かった…。
 
 雪乃が凛子の声に反応しようとした瞬間、美香が雪乃の着物に勢いよく茶をかけた。
 
 
 「このクソ女。目障りなのよ。こんなダサい着物着て田上を名乗りやがって。二度と私の前に現れ…」
 
 
 パシッ。
 頬を鋭く叩く音が、雪乃の頭上から聞こえた。
 雪乃がゆっくり顔を上げると、紫乃が血相を変えて、美香の頬をぶっ叩いていた。
 
 「あなた、今度から花月会出禁ね」
 
 紫乃は、目を三日月のようにしてニコリと笑い、そしてまた怖い顔に戻った。
 美香の目からは悔し涙が溢れていた。
 悠一朗のことが好きで好きで堪らなかったのだろう。元縁談の相手が結婚したという噂を聞いて、納得いかなかったのだろう。その腹いせは、妻である以上背負わなければならない試練なのだと、雪乃は悟った。
 紫乃はまた美香に続ける。
 
 「人のお着物を汚すことはどんな御法度か、位の高い着物を纏っている貴方なら分かると思うけど。弁償で済めばいいけどね〜、ん〜、お抹茶ってなかなか取れないから〜。それに…。こんな立派な訪問着、もうどこにも存在しないのよ…」
 
 (そうだ…。もうどこにも存在しない。この訪問着は、悠一朗さんの母・万里子さんのものだ…)
 
 雪乃は目を閉じ、気持ちを鎮める。
 罵られるのは構わない…。
 でも、大切な人のお母様の着物を汚されたことは許せなかった。
 紫乃は雪乃の震える肩をそっと撫でる。
 
 「金家さん。今回の件、ご両親にお話しせざる得ません。事の詳細は私からお伝えいたします」
 
 怒りを帯びた声で菊子は美香にそう言い、雪乃と凛子をすぐに帰るよう促した。紫乃がある名刺を胸元から取り出し雪乃に渡す。
 
 「ここの呉服店でお出ししたらいいわ。芸妓の着物を綺麗に仕立て直してくださるから」
 
 雪乃は名刺を受け取って礼を伝え、凛子と一緒に急いで桜舞庵を出る。
 そして兼七園の下で待っていたタクシーに乗り込み、田上家へ向かった。
 凛子は額に手を当て、静かに口を開く。
 
 「雪さん…。私がお側に付いていながら申し訳ありませんでした…。なんとお詫びしたら良いか…」
 
 「いえ、凛子さんは何も。お気になさらないでください…。それよりも、お着物が…」
 
 所々緑色になっている箇所を触りながら、雪乃は申し訳なく呟いた。
 
 「せっかくお母様のものをお借りしたのに…。こんな風にしてしまって…。私が悪いのですよ…」
 
 「雪さんは、何も悪くありません!私が…」
 
 「凛子さん、大丈夫です…」
 
 今の雪乃には、これ以上言葉を口にすることはできなかった。凛子は何一つ悪くない。誰も悪くない。認めてもらえない自分が悪いのだと、雪乃はそう言い聞かせていた。
 
 田上家に着くや否や、凛子は雪乃に着物を脱がせ、すぐに紫乃の御用達の呉服屋へ着物を持って行った。
 ウメが慌てた様子で「何かあったのですか?」と尋ねてきたが、雪乃は「少し休みたい」とだけ言い残し、一人離れに戻った。
 雪乃は、勢いよく階段を駆け上がり、寝室に入ってダブルベッドの布団に包まる。 
 抑えていた感情が溢れ、白い枕カバーに大きく滲み渡っていく丸い涙を幾つも流し続けた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 「そうか…、分かった」
 
 菊子から事情を聞いた善一朗が、帰ってきた悠一朗に事の詳細を伝えた。
 
 「フォローしてやってくれ」
 
 「あぁ」
 
 善一朗との会話が途切れ、悠一朗は離れへ向かう。
 悠一朗が恐れていたこと。
 それは、色んな女性が必ず妻になる人間を攻撃してくるということだった。縁談を一方的に断り続けてしまった以上、仕方がないと思っていたが、こうも直ぐに現れるとは思ってもいなかった。悠一朗は、眉間を指で揉みながら溜め息を吐く。離れの玄関を開け、静まり返った家の中に入り、リビングの電気はついていない様子から、寝室に居るのだろうと悠一朗は二階へ向かった。
 
 「雪乃?」
 
 寝室のドアを開け、悠一朗は暗く沈んだ部屋に入る。
 
 シーツに顔を埋めて寝ている雪乃を抱きしめるように、悠一朗は雪乃の横に向かい合って寝そべった。
 
 「雪乃、話せるか」
 
 「……」
 
 「顔、見せてくれないか?」
 
 「……」
 
 「…なら、このままでいい」
 
 悠一朗はそう言って、優しく雪乃の頭を撫でながら、小さく鼻を啜る音も包み込むように、雪乃を自分の元へ強く抱き寄せた。