「せんせ、」
「ん、おー、久しぶり」
少し開いたドアから声をかけたら、古賀先生は振り返って笑った。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
ガラッとドアを開けて中に入ると、美術室特有の匂いが身体中を包み込む。
前回来たのは冬休み前だから、ちょうど1カ月くらい前かな。
久しぶりのその場所は当たり前だけど何にも変わってなくて安心した。
窓際で、大きなキャンバスに向かって筆を動かしてる先生の後ろ姿も。
何も変わってない。
邪魔しないように静かに近づいて、そっと後ろから覗き込む。
何の絵だろ。
様々な色が散りばめられてる。
古賀先生の絵はどれも独創的で、ほんとに才能のある人の絵だなっていつも思う。
私がまだ美術部員だった頃、先生はよく私の絵を褒めてくれたけど、やっぱり全然だよ。
すごいなぁ。
眺めてると、不意に先生の左手が視界に入った。
そのまま後頭部に回って、先生の整えられてない髪がさらにわしゃっと乱れる。
ふふ、可愛い…
窓から差し込む光に照らされて茶色く輝く髪。
触れたいけど触れられない。
私は胸元で両手をぎゅっと握りしめた。
・
私、日向美緒は、高校に入学してすぐ、絵が好きという理由で美術部に入った。
そこで古賀先生に出会い、恋を知らない私は先生のことを好きになった。
柔らかい笑顔。ふわふわした喋り方。
少し猫背で歩く姿。
いつもワイシャツの上にジャージを羽織ってるところ。
先生なのに先生っぽくないところ。
生徒から友達みたいに話しかけられても怒らず、楽しそうに返してるところ。
でも必要な時はちゃんと、先生として生徒との距離をきちんと取るところ。
10歳も年が離れているのに、先生のことを知れば知るほど、どんどん好きになっていった。
高校3年生になって部活を引退したあとは、なかなか古賀先生に会えなくて、受験勉強が手につかなかった。
受験勉強の山場と言われる夏休みに入る前、ただ会いたい一心で美術室を訪れた私を、古賀先生は「おー久しぶり」と、いつもの笑顔で迎えてくれた。
それから、受験勉強に疲れた時に美術室に行くようになり、古賀先生の絵を描く姿を眺めたり、たわいもない話をしたりして、気分転換という名の幸せな時間を過ごしていた。
「今日登校日だったの?」
今までの想い出を辿っていた私の耳に飛び込んできた声に、はっと我にかえった。
こっちを見てるかと思いきや、変わらず先生はキャンバスに向かって筆を動かしてる。
「あ、はい…共通テストの自己採点の結果を出すために」
「あー、そういやなんか朝礼で言ってたな」
「先生、また朝礼寝てました?」
「うん、半分寝てた」
相変わらずだなぁ。
ふふっと笑うと、古賀先生がくるっと振り返り、
「お疲れ様」
柔らかい笑顔を私に向けた。
「…っ、ありがとうございます」
胸がとくん、となる。
「あの、結構良かったんですよ、全科目」
「へぇすごいじゃん」
「たぶん滑り止めは受かります」
「おー、じゃあその調子で一般も大丈夫そうだな」
「だといいんですけど…」
ちゃんと勉強してきたし、模試でも判定は合格圏内だった。
でもやっぱり不安。
本番何があるか分かんないし。
「大丈夫でしょ、日向なら」
そう言いながら、椅子から離れてどこかへ行く古賀先生。
「…」
先生行っちゃった。
もしかして邪魔だったかな。
描くのに集中したい時に来ちゃったかな。
製作途中の絵を見つめてそんなことを思ってたら、古賀先生が戻ってきた。
「はいどうぞ」
何かを差し出した古賀先生の手元を見ると、
「え、御守り…?」
有名な神社の名前が書かれた袋。
「そ。初詣で行ってその時買ったの。日向にあげる」
「え、私に」
「うん、ここ受験の神様で有名でしょ?」
古賀先生がニコッて笑う。
「え、なんで私に…あ、みんなにあげてるんですか」
「えぇみんなにあげないよ、そんな買えないもん」
「あ、みんなっていうか、元美術部員のみんな」
「ううん、日向にだけあげる」
“日向にだけ”
「…なんで?」
なんで、私にだけくれるの?
今日たまたま来たから?
たまたま来たのが私だったから?
「んーなんでだろ、なんか、特別だから?」
とく、べつ。
「あ、他の子には内緒ね」
いたずらっぽく微笑む先生。
「あ、ありがとうございますっ…!」
「ふふ、うん。ほんとは共通テスト前に渡したかったけど会えなかったからさ」
「あ…」
「でも神様にお祈りしてきたからちゃんと効いたみたいだね」
「お祈り?」
「うん。日向が受験上手くいきますようにって」
え。
初詣で、私のことお祈りしてくれたの?
大事な初詣で、自分の今年のことじゃなくて私のこと。
「先生」
「ん?」
「特別って…なんですか?特別ってどういう……」
「特別は特別だよ」
「……っ」
わかんない。
いつもそうだ。
先生は私を惑わすようなことを言う。
期待しちゃうようなことを言う。
特別って、それはただ単に生徒の中で特別なのか、それともそれ以上の意味があるのか。
「あーもう外暗くなってきたねー」
先生が窓の方へ近づいて、のんびりと言う。
ドキドキしてる私とは裏腹に、先生は平然としていて、どう思ってるのか全然わからない。
「……先生」
「んー?」
窓の外を見ながら大きく伸びをする古賀先生。
「あの、………」
ぐっと唾を飲む。
「……だ、第一志望受かったら、私のお願い聞いてくれますか」
言えなかった。
好きです、なんて。
今まで何度も溢れ出そうになった「好き」のひとこと。
先生との間のあと少しの距離を、やっぱり今日も超えられなかった。
「お願い?」
先生がくるっと振り返った。
今の私の精一杯の言葉に対して、先生はそのままただじっとこっちを見つめてくる。
その視線に耐え切れず目を逸らし、もらったばかりの御守りをぎゅっと握りしめた。
「…ふふ」
微かな笑い声に顔を上げる。
「え…」
「いいよ。何でも聞いてあげる」
「…何でも」
「うん、何でも」
にっこり微笑む先生。
「何でもって例えば?」
「え、俺が例挙げるの?日向のお願いなのに?」
「あ、えと、どこまでOKなのかなって、考える上での参考に!」
「なにー、もしかしてヤラシイこと考えてる?」
「ち、違いますよっ!そんなんじゃないです!」
慌てて言い返すと、先生が可笑しそうに笑った。
もう、先生ってば。
からかわないで!と心の中で呟く。
「例えば、先生の絵がほしいとか、先生と写真を撮りたいとか」
私の頭に浮かぶお願い事を言ってみた。
「ふーん、それから?」
「それからー…受験頑張ったねって頭を…」
「頭を?」
「…な、撫でてほしい」
言っちゃった!恥ずかしい!
「ふーん、あとは?」
私の羞恥心なんて気にもせず、もっと聞きたがる先生。
「い、今思いつくのはこれくらいです…!」
「あーそう?」
「はいっ」
「俺はもっと全然いいけどなぁ」
「いや……え⁉︎」
一瞬、耳を疑った。
もっと、全然、いい?
え、待って、どういうこと?
もっとってその、手を繋ぐとか、キ、キスするとか?
でもそれって、好き同士が付き合ってするようなことじゃ…。
え、じゃあ…いや、そんなまさか。
突然放たれた言葉に、私の頭の中はパニック状態。
「ま、とにかく」
不意に、頭にぽんと乗っかった柔らかい感触。
いつの間にかすぐ目の前に来てた古賀先生が、私の頭に手を乗せていた。
「何でも聞くから頑張れ」
優しく撫でたその手はすぐに離れて、またキャンバスの前に戻っていった。
どくんどくん。
心臓の音がうるさいくらいに響く。
「え、あの、頭撫で…まだ、第一志望受かって…」
「これくらいなら、今でもしてあげるよ」
「えっ、で、でも」
「共通テスト頑張ったご褒美」
「…っ」
「ね?」
「っ、はい!ありがとうございます」
私がお礼を言うと、先生は満足そうに頷いた。
もう、ほんとにずるい。
こんなの好きすぎるよ。
どこまで好きを更新させるつもりなの。
ドキドキが止まらないし、きっと顔もすごく赤いけど、そんなの気にしていられないほど好き。
「あともう一踏ん張り、頑張ってね」
「はい、頑張ります!」
「ふふ、うん」
私がいつまでも詰められない距離を、古賀先生は簡単に縮めてくる。
きっと私の気持ちなんてバレバレで、どこか余裕そうな古賀先生に焦ってしまうけれど。
私のお願い、ちゃんと聞いてくださいね。
先生。