翌朝、ぼくは瑠由ちゃんの言うとおり、いつもよりもちょっと早い時間に家を出た。エレベーターの前に着くと、いつもどおり瑠由(るう)ちゃんが一人でそこにいた。
「おはよ」
「おはよーございます」
「信じて来てくれたね」
「うん」
 相変わらずその小さな顔の下半分を、黒い不織布マスクが覆っている。ぼくはなんとなく悲しくなって、瞼を伏せがちに瑠由ちゃんの隣へ立った。
 エレベーターはもうすぐここへやってくる。話ができる時間、今日は短いかもしれない。三〇分早く来た意味あったのかな。
 ポーンと古い電子音が鳴ってエレベーターが到着。ゴウンゴウンうるさい扉が開いて、瑠由ちゃんから乗り込む。ぼくが乗って、扉が閉まって、そうしたら瑠由ちゃんは一階じゃないボタンを押した。
「えっ、屋上?」
「うん。お話するには最適でしょ?」
 そうか。エレベーターを一階に降ろさなければ話をすることはできるんだ。
 まばたきを重ねていたら、あっという間に屋上に着いた。エレベーターを降りて、ちょっとだけ階段を上がって、重たくて白い金属扉を開けたら、風がビョウビョウ吹いていた。
 屋上はそんなに広くはない。バーベキューができるスペースがありますよということで解放されているけれど、大人の身長よりも高い柵があるから危なくもない。
「ねぇ琢ちゃん」
 風に負けないような声で、瑠由ちゃんはぼくの数歩先に進みながら言う。
「私ね、なりたいものがみつかったの」
「えっ、ほんと?」
 ぼくも自然と声を張る。じゃなきゃ、きっと聞こえない。
「ずっと、私にしか出来ないことしたいって思ってた。琢ちゃんと話してたら、ちょっとわかったような気がする」
「風じゃないもの?」
「アハハ、うん。現実的に考えてみた」
「なにになりたいの?」
 くるっと振り返った瑠由ちゃんは、風に散らされる長い黒髪を抑えながら言った。
「グラビアモデル!」
「ぐ、グラビア?!」
 って、あれだ。水着とか着て、ちょっとえっちなポーズとかする女の子だ。胸の露出があれだったり、おしりをぼーんとしたり、ちょっと以上にえっちなシチュエーションを思い起こさせるような写真を撮らせてあげるやつだ。
 ぼくが口をあんぐりさせていたら、瑠由ちゃんはいつもみたいにカラカラと笑った。
「あのね、私ね、前からストーカーとか痴漢によく遭ってるんだ」
「え」
「胸触られたり、おしり触られたり、スカートの中の盗撮もあったよ。最近になって家まで着いてこられるようになっちゃってね。だから顔をね、マスクで隠してたの」
 そういう理由、だったんだ。あんまりにショックで棒立ちになる。
「お父さんとお母さんは?」
「パパは仕事で夜遅くて、昼くらいまで寝てるの。話できないからいないようなものだし、だからストーカーのこと知られたくない。ママは前に出ていっちゃってるから、もともとここにはいない」
 笑顔で言えることなんだろうか。瑠由ちゃんの抱えていたものが予想の斜め上をいきすぎていて、ぼくは言葉がなくなっていた。
「学校に行かないのもね、学校の前でストーカーに張られてたらヤだからなの。帰り道で絶対に家、わかられちゃうから」
「いつも、朝からどこ行ってるの?」
「人がいっぱい居るところ。駅前とか、公園とか」
「警察は?」
「行ったよ。でもね、一人捕まってもまた出てくるの。次から次に、別の人。キリがなくて」
「じゃあどうしてカラダを見世物にして売るようなことが、やりたいことなのさ!」
 (たま)らなくなって、ぼくは声を張った。
 瑠由ちゃんが寂しそうにする理由が次々にわかって、溢れて、怖くて、ずんずんと瑠由ちゃんへと足を進める。
「瑠由ちゃんが一番怖い想いしてるのにっ、それ以上怖いことしようとしてるじゃん! もっと自分のこと大切にしなよ!」
「私の『大切』は琢ちゃんだけなの。だから、私に関わってると知られたり、巻き込んだりするのがヤなの」
「へ……?」
 耳を疑う。足が止まる。瑠由ちゃんとの距離、ひと一人分。
「琢ちゃんと喋ってるところ見られて、琢ちゃんに何かあるのだけが怖いの。あとはどうでもよくなっちゃった。だから、エレベーターから降りたらお話するの禁止って言ったの」
 瑠由ちゃんは、言いながらいつものように笑っている。ぼくの肩がワナワナと震える。
「琢ちゃんだけが、私と普通にお話してくれる、唯一のひとだったから」
 鼻の奥がムズムズして、ぼくは思わず瑠由ちゃんを抱き締める。
「やっぱりやめよう、瑠由ちゃんっ。ダメだよ、そんなの。きっと他のことだってあるよ!」
「…………」
「ぼく、瑠由ちゃんに怖いことしてほしくないよ。それに、ストーカーとグラビア、関係ないよ」
「関係あるの、大有りだよ」
 ばり、と剥がされるぼく。瑠由ちゃんを見上げて、ハテナを浮かべる。
「考えてみてよ。こんだけそういうメに遭うってことは、それだけ私が魅力的だってことだよ!」
「は……はあ?」
「だからそゆことする人にはね、私のファンになってもらって、私にお金落としてもらうことにしたらいいって思ったの」
「ファ、ファン?」
「そう、ファン。しかもね、事務所に所属すれば、きっといまよりもずっとずーっとセキュリティ的に安心だと思うの」
 あんぐりしたぼくの顔がマヌケなんだろうか。瑠由ちゃんはクスクス笑って、ぼくを完全に離した。
「私の顔、かわいいよ。琢ちゃんの思うとおり、私確かに美人なの」
「ええ? ナルシストじゃん、それ」
「そうだよ! 小さい頃の瑠由ちゃんは、自分のこと世界で一番かわいいって思ってたこと、思い出したの!」
 瑠由ちゃんは自信満々にそう言って、はつらつとしていた。
「だから私、絶対グラビアで売れる」
 ビョウビョウ吹いていた風がおさまる。黒髪のはためきも、真っ黒のセーラー服のスカートのゆらめきも、いつものとおり元に戻る。
「いまにいくつも表紙飾るような、すごい有名なグラビアモデルになってやるから。グラビアだけじゃなくて、もしかしたら俳優さんにだってなれちゃうかもしんない! 風じゃなくて、星になるの!」
「…………」
「私の体も顔も、痴漢とかストーカーが触っていいほど安いものじゃあないってこと、世界中に知らしめてやるの」
 髪を耳にかけながら、瑠由ちゃんは笑っている。自信満々に、むしろ挑発的なほどに。
「なんか、瑠由ちゃんが言うとマジでそうなりそうだね」
 ぼくは呆れたような、でも安心したような気持ちで細く笑った。
「全部全部、琢ちゃんが昨日気付かせてくれたからだよ」
「おれ?」
「そう、おれ。だからキミは偉大ですよ、外川(とがわ)琢心(たくしん)くん」
「あ……」
 名字も名前も、あのたった一回で覚えてくれていたんだ。あんまりにもびっくりして、瑠由ちゃんの『賢さ』を身に染みて理解する。
「ねぇ琢ちゃん。私のこと、絶対に雑誌で見つけてね」
 風が、またふわりふわりと流れ始める。
「雑誌? 雑誌だけ?」
「うん、なるべく写真がいいって思う。琢ちゃんが見てくれてるって思いながらカメラの前に立ったら、最高の瞬間を切り取ったのがいっぱい出来るはずだもん!」
 優しい笑顔が、雲間から注ぐ光に照らされる。その瑠由ちゃんは、なんだか天使みたいに見えた。
「だからそのときに、私の顔、しっかり見てよね」
 柔らかいまなざしの瑠由ちゃんは、ぼくをじっと見つめてそう言った。
 背中まである瑠由ちゃんのストレートの黒髪が、風に穏やかになびく。それを右耳のそばで押さえる瑠由ちゃんは、もうそれだけで素敵な写真のようだった。
「うん。約束だよ、瑠由ちゃん」