何度ペンを走らせても、

 俺の手は彼女の名前ばかりを書きつらねた。


 小川美咲

 小川美咲

 小川美咲


「……くそ…」


 思い出になんて、できないんだ、小川さん。

 俺はまだ、こんなにもあなたが好きなんだ。


 でも、あなたはいなくて。

 ここにはいなくて。

 どこにいるのかも分からなくて。

 どうしていいのか分からなくて。



 俺に、何ができるんだ。



 手を止めると、代わりに涙の粒がページを濡らした。

 インクが滲み、彼女の名前が読めなくなる。


 こんな風にいつか、あなたは記憶から滲んでいなくなるんだろうか。

 ぼんやりと薄らいで、いつか見えなくなるんだろうか。


 はっきりと思い出せるあなたの笑顔も髪の柔らかさも細い肩も、全部。

 俺の名を呼ぶ心地よく響くアルトの声さえも、消えてしまうんだろうか。



 とめどなく流れ出る涙をとめられず、俺は本を閉じて床に顔を押し付けた。

 泣いて、泣いて、ただ馬鹿みたいに泣いて、

 泣きはらした顔を持ちあげた時には、部屋に新しい朝日が差し込んでいた。



 本を開く。

 涙で滲んでいた彼女の名前は、次のページに染みを作っていた。

 ページをめくると、その裏にも薄く滲んでいる。


 光の下で見るその文字は、まだ続きがあるかのように、薄くともしっかり残っていた。


 消えていない。

 まだ、消えていないんだ。

 
 ペンを握り直した俺は、窓際へ移動し、本の上で手を動かした。

 自分でも驚くほど、書くべきことが見えていた。


 伝えたいことは、ひとつだった。


 読んでもらいたい人はたった一人、あの人だった。