立ち尽くす俺の腕を、飯島さんが軽く叩いた。

 その振動に、ようやく我に返った俺は彼の顔を見つめた。


 飯島さんの目には、憐れむとのはまだ違う、優しさの色がにじんでいた。


「これ」


 そう言った飯島さんは、体をかがめて、隣の席に立てかけてあったらしい一本の傘を俺に差し出した。


「それ……」

「彼女の忘れ物だ。いや、置いていったのかな。アパートの外に立てかけてあったんだ」


 彼が差し出したのは、小川さんの傘だった。

 薄いアイボリー色の地に、蒼い雨粒を散らしたような、あの傘だ。


「これ、和也が美咲に買ってやった傘なんだよな」


 懐かしそうに目を細めて、飯島さんが呟く。


「君がくれたっていうあの傘は……、無かったよ」


 消えていく彼女の後ろ姿が浮かんだ。

 息が詰まり、ぎゅっと目を閉じた。


「君は……本当に彼女を救ったのかもしれないな」


 飯島さんのそんな言葉も、今の俺には、ただ右から左に抜けていくだけだった。

 

 どうして、俺には会いに来てくれなかったのだろう。

 電話だってよかった。一言でもいい、声が聞きたかった。

 どうして何も言わずに消えてしまったのだろう。


 この傘を置いていった意味だって、

 俺の贈った傘はどうしたのかだって、

 もう、確認しようがない。


 いや、

 俺の贈った傘だって、きっとどこかに忘れているだろう。


 やっぱり彼女は、無神経だ。


 その傘を受け取った俺は、飯島さんにろくに挨拶もできないまま店を出た。


 外は降り出したばかりの雨に濡れはじめ、冷たい風がなぶるように俺の体を刺していった。