声を出したいのに、出ない。

 唾を飲み込み、乾いた唇を必死で動かしていると、


「……どうかした?」


 ぽつりと小川さんが呟いた。



 ―――どうか、した?



 何なのだろう。

「どうかした?」なんて声を掛けられてる俺は、一体何なのだろう。


 もちろん、小川さんが悪びれる必要なんてこれっぽちも無い。

 けれど……

 彼女としたキスが瞬間的に脳裏を過ぎった俺の思考は、

 もう……働かなくなっていた。


 そうだ。

 その程度の男なのだ、俺は。……彼女にとって。

 何かが無ければ、どうかしなければ、この部屋にいることがおかしい程度の。


 俺は、何を思い上がっていたのだろう。

 歩道橋に現れない彼女を心配して部屋に押しかけるようなことをして。


 友人でも、ましてや恋人でもないくせに。

 なんて……間抜けなのだろう。


 そして……

 飯島さんとはそういう関係なのだ、小川さんは。


 写真のことも何もかも、

 頭の中から全てが抜け落ちた。

 動物園での彼女も、あのキスさえも、すっかり零れ落ちるような脱力加減だった。


 二人に背を向けた俺は、逃げるように部屋を出た。

 傘をさすことも忘れていた。


 雨はさっきよりも強くなっていた。

 濡れても濡れても、何も感じなかった。


 歩きながら、小川さんの白い肩を思い出していた。

 力が入らないのに、何故か体の中は戸惑うほどに熱くって、どうしようもなかった。


 降り注ぐ雨を割るようにして、俺は唇をかみ締めて歩き続けた。