錆び付いた日常に、オイルを点されたようだった。

 パターン化されたスケジュール帳に、赤ペンで文字を追加したような。


 俺は一人でそんな日々に満足していた。

 退屈なコンビニ勤めも、アパートと店の往復も、

 何か特別なものになったような気持ちになっていた。


 浮かれていたのかもしれない。



「藤本さん、最近なんかちょっと楽しそうっすね」

「え?」


 小川さんが店を出てすぐに、田中が嬉しそうに俺の顔を覗きこんだ。


「楽しそう?」

「うん。楽しそうっすよ、何か」

「何だよそれ」

「俺が思うに、あの人のせいですよね?」

「あの人?」

「藤本さんがー、小川さんって呼んでる、今出てったお客さん」


 にやにやする田中の顔を眺めながら、自分の耳が熱くなってくるのが分かる。

 何でこんな反応をしてしまうのか戸惑いながら、田中の顔に「そんなんじゃねーよ」と言うと、


「あの人、あの時の人でしょう?」


 真顔になった田中が言った。


「あの時? って?」

「藤本さんがいきなり居なくなった日の」

「え?」

「雨の日、急に走っていったでしょ? 歩道橋に」

「…歩道橋」


 カウンターから外に目を向けた。

 暗がりのなかに、薄っすらとその形が見えている。


 あの日の行動を思い出しながらゆっくりと田中に視線を戻すと、


「俺、あの日見てたんっす。雑誌戻そうと思ったら走っていく藤本さんに気づいて。
びっくりしましたよー、すごい勢いで走っていくんですもん。
どうしたんだろって見てたら歩道橋で誰かを抱えてまた走って…そのまましばらく戻ってこなかったんですよね、藤本さん」

「…見てたのか」

「でもそれがあの人なのかどうかは分かんないですけど。でも、そうでしょう?」

「まあ、そう…だけど」


 田中が見ていたなんて全く気づかなかった。

 何でコイツは何も聞かなかったのだろう。