高架下。日陰の中、冷たいコンクリートの地面で熱を逃がし、目の前に流れる川の流れる音で汗を冷やす。
遠くで鳴る、サイレンの音。
それは一瞬にして春に家族との記憶を呼び起こさせるには十分な脅威だった。
「お母さんただい…」
「春、模試の結果は?出たんでしょう」
春の声を遮って振り向きもせずに春の母親は夕飯作りをしながらそう言った。無理矢理あげた口角は無駄になり、俯いた。そんな春にため息をついて『早く』と母親は急かした。
「頑張ったけど、また駄目、だった。っごめんなさい」
春の母親は娘の焦れったい態度に、さらに深いため息を零した。春の肩が、びく、と震えた。
「本当、情けない子」
一番聞きたくなかった言葉が耳に届いてしまった。
情けない娘でごめんなさい。出来損ないで、ごめんなさい。
自責の念が頭を駆け巡る。そんな中、母親は振り返り春を見つめ、苛立ちを含んだ顔つきで口を開いた。
「ほら、いつまでそこに突っ立ってるのよ。さっさと勉強を始めなさい」
「…はい」
でも母親は、こんな娘出来損ないでも世間体を前にしてしまえばいなくなると困るのだ。
その裏では春が居なくなっても母親はひとり鼻で笑うのだろう。だからなんだといった様子で。
春の母親は、悲劇のヒロインでも演じているのかもしれない。時々何かに取り憑かれて操られているような母親が、春は怖かった。
春は、家出紛いのことをするのは、これが初めてじゃなかった。一度目は、小学校2年生の夏。その時は、好奇心にかまけてひとりで真夜中に飛び出した。
自我も不安定で楽しいことだけが全て。そんな小学生の春は、母親が好きだった。
テストで満点を取れば笑ってくれる母親が。
出来ないことが出来るようになれば褒めてくれる母親が。
太陽が真上に昇り8時間にも及んだ捜索の末、無事何事もなく保護されたのはほとんど奇跡に近かったという。一面田んぼの田舎町ならまだしも、都会、都心ど真ん中に住んでいた春の家族。熱帯夜であったことにも救われた、と言っていた。
警察署に駆けつけた母親を見た瞬間後悔と自責の念に駆られ泣いたあの日の夜、忘れもしない二日間だけでも離れていた母親に申し訳なくて嬉しくて、手を繋いで帰った大雨が降った夜。
ガタン!!
ぶつかった拍子にドアが大きな音を立て、刹那、春の背中にびりっと電撃が走る。
状況を理解するのにそう時間はかからなかった。母親は、春を殴り飛ばしたのだ。
『一体何してくれるのよこの馬鹿娘!!恥を知りなさい!』
数秒経って漸く処理が追いついたとともに切って出た涙腺から涙が溢れ出し春の視界を歪める。
気づけば春は床に頭を擦り付け号泣しながら土下座をし母親に謝っていた。何度も罵声を浴びせる母親に幼い春は泣いて縋るしかなかった。少なくともその時の春はそんな母親でも心の底から愛していて、愛されたいと願っていたから。そんな母親が間違いだなんて思いもしなかったから。
その時の記憶は昔のこととあって朧気なものだったが、忘れろと願う度に絡まって解けない鎖のように脳裏にまとわりついて離れない。
『本当、あんたなんて産まなきゃ良かったわ』
その言葉が痛いほど今もずっと胸に突き刺さっている。
翌日は学校前まで母と手を繋いで登校した。周囲の同情をかっさらう為に。
当たり前のようにエプロン姿の主婦達が井戸端会議と称して道路の端で輪を作っていたその横を、あからさまに大きな声を出して群衆の注目を集めた。
おばさん特有のお節介に揉みくちゃにされ微笑みながら優越感に浸る母親は、今思えば心底気味が悪かった。
噂が好きな主婦たちの会話は留まることを知らず、あれよあれよと言葉をこぼしてゆく。時に会話を盛り上げる嘘をも織り交ぜて。
「でも良かったわねえ、夜通し行方不明だったのに無事で!」
「本当そうよ、最近物騒なんだから」
「うちの子なんて春ちゃんを探しに行く〜って泣き叫んで学校行きたがらなくて、こっちまでハラハラしちゃったわよ〜。」
「その節はご心配おかけしまして、もうなんと言ったらいいか…」
「春ちゃんもママに心配かけちゃだめよ?」
「健気なのはいい事だけど…」
春は知っている。母親の涙は嘘偽りの演技だということを。
春がいなくなった土曜日、それに母親が気づいたであろう日曜日。母親は、夜中に父では無い見知らぬ男と薄暗い店に行っていた事を、
草むらの影から見てしまった。
「はる」
「っ!」
思わずハッとなり顔を上げると床に着いた手からひんやりとした硬い感触が触れた。春の隣には棒アイスを春に差し出しながら何ともない顔をして立っている璃来の姿があった。
「眠い?アイス」
「あ…あはは、うん、ちょっとね」
春は璃来からポッキンアイスを受け取る。
「じゃあ、ぐっすり寝たい春のためにぼくが特別な場所を用意してあげるよ」
「特別な…場所?」
「そう。じゃあまず、着替えて!」
どこから買ってきたのか、璃来が左手に下げていた紙袋を春に突き出した。
「着いたよ」
璃来の後ろをついて歩いてしばらく経った頃。璃来のその声を聞き春は目的の場所と思われる建物を見上げた。
ふたりの目の前に広がる景色は、昼ぞらの下、全くムードの欠片もないとあるホテル。
「如何わし…え?」
外観から見た感想がそのまま春の口をついた。声に出ていた事に気づかず、璃来の肯定の声に思わず耳を疑った。
「あー…ごめん璃来。私夢見てる…?」
「痛い?」
「いひゃいでぅ、」
璃来に軽くつねられた頬を擦りながら、不安げに璃来の後を追って歩く。
春の頭にある様々な心配事を余所に、気づけば一室を借り部屋を堪能していた。
「ふっかふかだぁ〜〜…」
春は普通のビジネスホテルでは味わえないような空間がビジネスホテルよりも低価格で実装されているこの空間に蕩けるような心地良さを覚える。
「でも、なんでこんなに安いんだろうね〜」
何の気なしに春は璃来へ問う。その返事に戦慄することも知らずに。
「ああ、ここね、出るよ」
「へえ〜そうなんだあ〜…。…ってぇぇえええ?!」
後付けされたその事実に春は事を理解し後退あとずさる。その行動に璃来は吹き出して。
「ははは、嘘」
「あ〜なんだ、もう脅かさないで_」
「あ、如何わしいホテルっていうのが嘘」
「…。つまり、」
「そういうこと」
一頻ひとしきり怖がる春だったが、璃来が守ってくれるというので15分も経てばいっそ開き直っていた。
「あ、ねえ璃来、すごいよ、ボードゲームもテレビゲームも映画もある!お届け物も対面不要だって!アメニティーも…すごいなぁ…」
「今日はここでパーティーしよう」
「パーティー!?賛成!」
それからふたりは夜通し語り合い遊んで食べて、笑って、幽霊をカメラに収めようと写真を撮ってははしゃいで、幸せな夜を過ごした。
眠ってしまった春の隣、ひとつの大きなベッドで並んで横になる。璃来は春の手を握って、言葉をかけた。
「今は何も考えないでいいんだよ」
朝になっても絶対に春の夢は覚まさせないから。
ぼくを春の一番星にして。春を怖がらせる全ての不吉から守ってあげるからね。
遠くで鳴る、サイレンの音。
それは一瞬にして春に家族との記憶を呼び起こさせるには十分な脅威だった。
「お母さんただい…」
「春、模試の結果は?出たんでしょう」
春の声を遮って振り向きもせずに春の母親は夕飯作りをしながらそう言った。無理矢理あげた口角は無駄になり、俯いた。そんな春にため息をついて『早く』と母親は急かした。
「頑張ったけど、また駄目、だった。っごめんなさい」
春の母親は娘の焦れったい態度に、さらに深いため息を零した。春の肩が、びく、と震えた。
「本当、情けない子」
一番聞きたくなかった言葉が耳に届いてしまった。
情けない娘でごめんなさい。出来損ないで、ごめんなさい。
自責の念が頭を駆け巡る。そんな中、母親は振り返り春を見つめ、苛立ちを含んだ顔つきで口を開いた。
「ほら、いつまでそこに突っ立ってるのよ。さっさと勉強を始めなさい」
「…はい」
でも母親は、こんな娘出来損ないでも世間体を前にしてしまえばいなくなると困るのだ。
その裏では春が居なくなっても母親はひとり鼻で笑うのだろう。だからなんだといった様子で。
春の母親は、悲劇のヒロインでも演じているのかもしれない。時々何かに取り憑かれて操られているような母親が、春は怖かった。
春は、家出紛いのことをするのは、これが初めてじゃなかった。一度目は、小学校2年生の夏。その時は、好奇心にかまけてひとりで真夜中に飛び出した。
自我も不安定で楽しいことだけが全て。そんな小学生の春は、母親が好きだった。
テストで満点を取れば笑ってくれる母親が。
出来ないことが出来るようになれば褒めてくれる母親が。
太陽が真上に昇り8時間にも及んだ捜索の末、無事何事もなく保護されたのはほとんど奇跡に近かったという。一面田んぼの田舎町ならまだしも、都会、都心ど真ん中に住んでいた春の家族。熱帯夜であったことにも救われた、と言っていた。
警察署に駆けつけた母親を見た瞬間後悔と自責の念に駆られ泣いたあの日の夜、忘れもしない二日間だけでも離れていた母親に申し訳なくて嬉しくて、手を繋いで帰った大雨が降った夜。
ガタン!!
ぶつかった拍子にドアが大きな音を立て、刹那、春の背中にびりっと電撃が走る。
状況を理解するのにそう時間はかからなかった。母親は、春を殴り飛ばしたのだ。
『一体何してくれるのよこの馬鹿娘!!恥を知りなさい!』
数秒経って漸く処理が追いついたとともに切って出た涙腺から涙が溢れ出し春の視界を歪める。
気づけば春は床に頭を擦り付け号泣しながら土下座をし母親に謝っていた。何度も罵声を浴びせる母親に幼い春は泣いて縋るしかなかった。少なくともその時の春はそんな母親でも心の底から愛していて、愛されたいと願っていたから。そんな母親が間違いだなんて思いもしなかったから。
その時の記憶は昔のこととあって朧気なものだったが、忘れろと願う度に絡まって解けない鎖のように脳裏にまとわりついて離れない。
『本当、あんたなんて産まなきゃ良かったわ』
その言葉が痛いほど今もずっと胸に突き刺さっている。
翌日は学校前まで母と手を繋いで登校した。周囲の同情をかっさらう為に。
当たり前のようにエプロン姿の主婦達が井戸端会議と称して道路の端で輪を作っていたその横を、あからさまに大きな声を出して群衆の注目を集めた。
おばさん特有のお節介に揉みくちゃにされ微笑みながら優越感に浸る母親は、今思えば心底気味が悪かった。
噂が好きな主婦たちの会話は留まることを知らず、あれよあれよと言葉をこぼしてゆく。時に会話を盛り上げる嘘をも織り交ぜて。
「でも良かったわねえ、夜通し行方不明だったのに無事で!」
「本当そうよ、最近物騒なんだから」
「うちの子なんて春ちゃんを探しに行く〜って泣き叫んで学校行きたがらなくて、こっちまでハラハラしちゃったわよ〜。」
「その節はご心配おかけしまして、もうなんと言ったらいいか…」
「春ちゃんもママに心配かけちゃだめよ?」
「健気なのはいい事だけど…」
春は知っている。母親の涙は嘘偽りの演技だということを。
春がいなくなった土曜日、それに母親が気づいたであろう日曜日。母親は、夜中に父では無い見知らぬ男と薄暗い店に行っていた事を、
草むらの影から見てしまった。
「はる」
「っ!」
思わずハッとなり顔を上げると床に着いた手からひんやりとした硬い感触が触れた。春の隣には棒アイスを春に差し出しながら何ともない顔をして立っている璃来の姿があった。
「眠い?アイス」
「あ…あはは、うん、ちょっとね」
春は璃来からポッキンアイスを受け取る。
「じゃあ、ぐっすり寝たい春のためにぼくが特別な場所を用意してあげるよ」
「特別な…場所?」
「そう。じゃあまず、着替えて!」
どこから買ってきたのか、璃来が左手に下げていた紙袋を春に突き出した。
「着いたよ」
璃来の後ろをついて歩いてしばらく経った頃。璃来のその声を聞き春は目的の場所と思われる建物を見上げた。
ふたりの目の前に広がる景色は、昼ぞらの下、全くムードの欠片もないとあるホテル。
「如何わし…え?」
外観から見た感想がそのまま春の口をついた。声に出ていた事に気づかず、璃来の肯定の声に思わず耳を疑った。
「あー…ごめん璃来。私夢見てる…?」
「痛い?」
「いひゃいでぅ、」
璃来に軽くつねられた頬を擦りながら、不安げに璃来の後を追って歩く。
春の頭にある様々な心配事を余所に、気づけば一室を借り部屋を堪能していた。
「ふっかふかだぁ〜〜…」
春は普通のビジネスホテルでは味わえないような空間がビジネスホテルよりも低価格で実装されているこの空間に蕩けるような心地良さを覚える。
「でも、なんでこんなに安いんだろうね〜」
何の気なしに春は璃来へ問う。その返事に戦慄することも知らずに。
「ああ、ここね、出るよ」
「へえ〜そうなんだあ〜…。…ってぇぇえええ?!」
後付けされたその事実に春は事を理解し後退あとずさる。その行動に璃来は吹き出して。
「ははは、嘘」
「あ〜なんだ、もう脅かさないで_」
「あ、如何わしいホテルっていうのが嘘」
「…。つまり、」
「そういうこと」
一頻ひとしきり怖がる春だったが、璃来が守ってくれるというので15分も経てばいっそ開き直っていた。
「あ、ねえ璃来、すごいよ、ボードゲームもテレビゲームも映画もある!お届け物も対面不要だって!アメニティーも…すごいなぁ…」
「今日はここでパーティーしよう」
「パーティー!?賛成!」
それからふたりは夜通し語り合い遊んで食べて、笑って、幽霊をカメラに収めようと写真を撮ってははしゃいで、幸せな夜を過ごした。
眠ってしまった春の隣、ひとつの大きなベッドで並んで横になる。璃来は春の手を握って、言葉をかけた。
「今は何も考えないでいいんだよ」
朝になっても絶対に春の夢は覚まさせないから。
ぼくを春の一番星にして。春を怖がらせる全ての不吉から守ってあげるからね。
