深夜の逃避行劇

 明け方にようやく雨が止み、雲の隙間から太陽の光が覗き天使の梯子を作り出していた。
鮮やかな朝の色。璃来の隣にいたからこそ、この景色に気づけた。悪い夢でも見ているかのようなこの世界の薄暗さの中で、確かに救いはあることを示す光に春は思わず手を伸ばしていた。


「んん…春?」


春が声のする方に視線をやると、眠い目を擦る璃来の姿が見えた。


「おはよう、璃来」


ふぁあ、とあくびをする璃来を見てあくびが春にもうつり、ふたりして大きな口を開く。日曜日の早朝は、清々しい雨上がりだった。
辺りを見回す。汚い部分も全て隠し思考が鈍る夜と違って、朝の気配は透き通っていて苦手だった。

道路のコンクリートには昨日降った雨が残した水溜まりが太陽に照らされ反射しきらきらと光る。道路沿いに植えられた小さめの木の枝に止まったすずめが鳴いている。
物思いに耽っている春をよそに、よし、と息巻いた璃来は昨夜雨宿りしていた遊具をくぐり出て大きく伸びをする。


「んー!いい天気!だね、春?」


続けて春も遊具から出て、急に眩しい程の朝日を浴びて思わず目を擦る。


「うん、晴れたね」

「じゃあ、行こっか?」


璃来は春に手を差し伸べる。迷いなく春はその手を掴めば、璃来に問う。


「行くって、どこへ?」

「それはもちろん…定住地探し!」

「…定住…璃来、私お金とか何も持ってない…よ?」


にやり、と笑った璃来は、繋いだ手と反対の手で肩から斜めにかけているウエストポーチを漁った。

そのポーチの大部分を占めているのは古いフィルムカメラだった。
璃来のポーチから取り出されたそのフィルムカメラはそのまま春の首に掛けられた。


「カメラ?」

「春が撮ってよ。思い出作りとして。」

「わ、わかった」


何かの鍵。飴。

よくある防犯対策用の黄色い笛。

絆創膏。

それから、


「………え?」


乱雑にポーチから顔をのぞかせる一万円札の束が、凡そ10束前後。


「あと銀行のカードもあるよ!」


そう言って璃来の手にある通帳が開かれる。ゼロがいち、にぃ、さん…


「ごひゃくまふぐぐぐ、、!!」


叫び出した春の口を慌てて璃来が塞いだ。
困ったようにはにかんだ璃来が小さな声で「ナイショ」と言った。春の思考がクエスチョンマークで埋め尽くされる。
パンクした春はそれから、考える行為を放棄したのだった。


璃来の歩いたコンクリートが淀んだ色から澄んだ色へ色づいてゆく。春はその後を着いて回り、昏い世界に飲み込まれまいと璃来の手を強く握る。
すると、璃来も春の手を握り返した。きっと大丈夫、そう思いが込められているように感じた。

時刻は凡そ7時を回る。
平日であれば散歩する老人や通学、通勤をするサラリーマンがよく歩いている道も、休日ということも相まって全く人とすれ違わない。この時間道端でよく吠えている犬も今日は休暇日の様だ。

大通りをひとつ逸れた細い入り組んだ道を通る。開けた道に出ないのは、璃来の優しさだった。
途中あるコンビニで食料を多めに調達し、食べ歩きながらふたりは目的地を目指していく。


「春、こっち」


道を一本逸れて郊外の木が生い茂る小さな森のような場所に入る。近くには大きな川が流れており、橋を隔てて向こう側から建物がまだらになっていく。
舗装されていない砂利道をしばらく歩いていくと、開けた場所に出た。森に囲まれた、ひっそりとしたその場所で春はあるものを目にする。


「ここは…?」

「線路の終着点。一応廃線になってるから、もう使われてない線路だよ。これは、青藍(せいらん)電車。覚えてる?」


8年前、とある事故があった。
青藍と名付けられたその電車は半世紀をこの街とともに育った長寿車両だ。だが首都圏での新しい線路の開通と新型鉄道車両の導入に伴い車両の見直しが行われ、劣化も進んでいたこの青藍電車は廃車されることになったのだ。
そして8年前の某年某月、最終運行されたその日。
乗客を乗せた青藍電車はとあるトンネルを通過中忽然と姿を消した。それから空白の2年の歳月を経て青藍電車はこの場所で発見されるに至った。
乗っていた乗客たちは全員無事だったが眠った状態で発見され、青藍電車が消えていた過去2年間の記憶を失っていた。その当時は大々的にテレビニュースで取り上げられ、よく話題になっていたものだ。
そしてこの電車に関してもうひとつ不可解な事実として、この森に線路は勿論のことトンネルは存在しない筈だった。それ故にこの森を一周してもどこにもトンネルの出口はない。ただ確かにトンネルを覗くと草木の隙間から覗く砂利が敷かれた線路の道が地続きに続いてあたかも先があるかのような雰囲気だった。それを気味悪がったものたちがこのトンネルを心霊スポットとしそれを面白がって訪れた若者たちが度々行方不明になっている…という話だ。
璃来が一応廃線になっている、と言ったのは存在しない線路で後にも先にも使われたことは無かったが、一応正式に廃線と定められたためだった。

この青藍電車は6年前にこの場所で動かない状態で発見されてからそのままこの地で眠ることになった。
列車の中は記憶のない乗客たちが忘れていったと思われる置き去りにされたメガネやカバン、折り畳み傘、折りたたみ式携帯電話、空っぽのペットボトルなど、どれもこれもとうに使い物にならなくなっているが当時の状態のまま放置され続けていた。列車は更に老朽化して所々ひび割れており、草がつるを生やしていることで月日の流れを物語っていた。


「あっ璃来!ここの水道、水出るよ!」


ちゅんちゅん、と雀が鳴く。小さいとはいえ森なので辺り一帯が自然に囲まれており、虫や動物たちが生命を宿らせている。
いや、まずこの場所は森では無かったのだが。
この森は昔、『くじら公園』として民間人の憩いの場として使われていた場所だった。この話は青藍電車が失踪するより前、今から10年前に遡るのだが、余りにも話が長くなってしまうためこの場では割愛する。

公園に設置されていた遊具は全て撤去されてしまっていたが、立形水飲水栓だけは何故かぽつんと残されていたようで。一か八かで蛇口を捻った春は歓喜の声を上げた。


「ここをぼくたちの拠点にしよう」

「いいね、秘密基地みたいで!」


春は水道の蛇口を閉め璃来のいる電車の方に駆け寄っていく。座席の砂を払い、腰掛ける。璃来は電車に残された忘れものを手に取りながら物色しているようだった。


「私、もっと早くこうしていればよかった」

「それじゃあぼくと出会えてないよ。春があの時あの選択をしたから、こうしてぼくたちは一緒にいる。」

「…やっぱり私たち、運命で繋がってるんじゃない?」


子どもみたいに無邪気に笑ってそう言った春に、璃来もふっと顔を綻ばせて笑い、そうだといいね、と口にした。


「これからもいろんなことを選択して生きていかなければいけない。でもぼくは、行く先にどんな未来が待っていようと、春を選んで生きていくし、絶対に置いていかない」

出会ってまだ一日も経っていないのにそう言い切る璃来の真相が春には分からないが、その真剣な眼差しだけは疑ってはいけない気がして。
春は茶化して璃来を揶揄いたくなった。嘘ならはやく言ってほしい、そう思って。だけど璃来は、春の心を更にかき乱す。

「…病める時も健やかなる時も、璃来は私を選んでくれますか?」

「はい」

「…」

「ははっ、自分で言ったのに、春、顔真っ赤!」

「〜〜!跪いて手を取ってなんて頼んでないよお!」


その日は比較的暖かい夜だったこともあり電車の中で一晩を明かすことになった。電車内であるため風は遮ることが出来ており、一部の劣化していない座席部分はふかふかで、案外快適に眠れた夜だった。