深夜の逃避行劇

目の前にあった雨に濡れた遊具の方へ向かって隣を歩く彼女が口を開いた。滑り台には雨が滴り、シーソーの上にはカタツムリが這う。


「ねえ、知ってた? 雨の日は指紋が残らないから事件が起こりやすいんだよ」


ところどころ穴の開けられた立体六角形が無造作に積み重なった遊具の中で雨宿りをする。遊具にばらばらと雨粒が落ちる。影が落とされ更にふたりが暗闇に溶ける。閉じた傘の先から雫が零れ落ちる。外灯に、彼女が照らされて浮びあがる。


「もしかして、」


彼女は悪戯げに笑った。


「全部仕組まれてたみたい? 残念、偶然だよ」


そう言ってまた彼女は自身の唇に人差し指を当てはにかんだ。もし春が男だったら否、女の今ですら心臓を掴まれていた。


「あ、そうそう。期限はこの雨が明けるまでにしようか」

「き、げん?」

「永遠なんてつまらないからね。」


春は彼女の含んだ物言いに疑問が残った。彼女が続ける。


「梅雨が終わる頃に逃避行を完遂できたら、ぼくが君を殺し(救っ)てあげる」


もうこの話題は終わり、そう言いたげな雰囲気が彼女の周りに漂っていた。目が合っても、どうかしたのって顔して微笑むだけ。

わかったよ。私、処理能力は高い方なの。
春は話題を切りかえた。


「なんか私たちって、死のうとした大罪人とそれを止めた勇者みたいだね」

「勇者? ははは、誘拐犯の間違いだよ。それに君の最初で最後の勇気を蹴って無理やり連れ出してるんだから、ぼくも大罪人だ」

「ふふ、じゃあ一緒だ。ねえ、やっぱり運命みたいじゃない?」


多分春は目を輝かせていたと思う。彼女より少しだけ伸びた背格好をしていても傍から見れば圧倒的に彼女のほうが歳上に見えた。
手が遊具の床に落ちている砂に触れ、ざらりと音を立てた。雨は、まだ止みそうにない。

ふたりがいる公園にある時計の針が、午後10時を指している。春は彼女と雨音だけの静かな空間を共有していたら、いつの間にかこんなに時間が経っていたことに驚かされた。
辺りは雨のせいで余計に真っ暗だ。切れかけの頼りない街灯は最早役立たずで、月明かりが唯一ふたりを照らしていた。
遊具の繋ぎ目、僅かな隙間からぽた、ぽた、と水滴が落ち水溜まりを作る。
雨が降るとより一層、世界が窮屈になる気がする。


春はそれを、知っている。


雨が降ると決まって父親が帰ってこない。
春の父親は不倫していた。でも、母親は何も言わない。
全て、世間体を気にしているせい。気味が悪いほどに円満な家族を演じ続ける。

ああ、だめだ。雨を見ると思考が弱る。


「そういえば、あなたのことなんて呼んだらいい?」


自分の中の空気を変えたくて、春はちらりと彼女を見やって空にまた視線を戻し、空気と会話するように言葉を紡いだ。


「ぼくの名前は璃来(りく)。瑠璃のりに来るで、りく」

「…璃来」

「そう」

「私は、はる。季節の春」


それから璃来は、ふっと笑って、「きれい」と零した。はにかんだその笑顔が、彼女の輪郭をもって、色付きはじめる。

その瞬間初めて、春の本能が彼女のことを他人以上の存在として認識しだした。
璃来の髪は綺麗な黒髪、髪に付けられた色とりどりのガチャピン、赤子のような薄紅に染め上げられた頬。春の世界で璃来だけに何もかも色がついた。その瞬間、春のいた世界に璃来が現れたのだと、思った。気づいたら、春は目の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

璃来は何も言わず笑みを零した。心地よい雨が世界を2人きりにしていた。


「璃来、聞いてもいい?」

「うん?」

「璃来は、今何歳?」

「15だよ」

「じゃあ、高1?」

「いや、中3だよ。春は?」

「私は、16。高2」

「わお、春センパイだ」

「先輩なんて呼ばないで、春、って呼んでほしい…」


春は何故か改まって恥ずかしくなって語尾に向かうにつれ声が小さくなる。それでも璃来は気にもせず、「春」と柔らかい声でその名を呼んだ。
「嬉しい」だなんて、春は胸が高鳴って、率直すぎるそんな言葉を口走っていた。

また狭い遊具の中ふたりで横並びで座り直した。
しとしと雨が降り続いている午後10時を過ぎた頃。
近くからげこげことカエルの鳴き声が聞こえてくる。
そうして、いつの間にかふたりで眠ってしまっていたんだ。
ぎゅっと手を握りあっていた。
久しぶりに感じた暖かい夜だった。