深夜の逃避行劇

酷く頭が痛む。波の音が間近に聞こえている。冷たい海風が頬を突き刺す。

長い夢から目覚めたような感覚を覚える。
春は辺りを見回して初めて、気を失っていたことに気づく。視線を動かすと、粉々に壊れたフィルムカメラが目に入った。

地上約70mの高さから落下してなお、春は、否、璃来でさえまだ意識を保っていた。

雨催いの空は雨足は弱くなったものの、遣らずの雨は降り続く。
地平線の遥か向こう薄くなった雲の隙間を縫って朝日が差し込んでいる。
もうじき、雨は止む。


" ぼくを殺して "


璃来が朦朧とした意識の中、声が出ずとも口を動かしたその言葉が春の頭にこびりついて離れない。

お互いに身体中が痛み毎秒激痛が襲い傷という傷から出血が止まらないのだ。
足の感覚は既になく、体を動かそうにもその四肢は自分のものじゃないかのように反応がない。この体中の激痛は死んだほうがマシだと思えるほどに耐え難いものだった。

だが死を願った璃来を前に春はその瞬間願ってしまった。璃来の生を。救いを。
いくつもの叶わない約束をして、それでも叶うことを願っていた。

もしも私だけが生き残ってしまったら。璃来が思い出にいなくなった世界で私はどうやって生きていけばいいというの。

春は一度も璃来から『生きたい』という言葉を聞いたことがない。だからこの瞬間璃来は当たり前みたいにそんな言葉を言うんだ。

初めから璃来は運命に抗うという選択肢を持っていなかった。春は璃来の光きぼうになることはできなかった。

春に最愛を殺すことはできなかった。できるはずもなかった。
春に与えられた選択は権利であって義務じゃない。璃来がそうさせた。
春に選択肢を与えて逃げ道をつくらせた。


「………璃来…私、ね…ずっと…璃来に言いたかった、ことがあるの___」


僅かに聞こえていた璃来の小さな呼吸音が次第に弱まり、もう春の耳には届かない。
その重く閉じた瞼はぴくりとも動かず、握ったままの手は酷く冷たい。
乾ききったはずの春の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。結局こんな時でさえ春は自分のことしか考えていない。

春が目にした記憶の最後は、最悪の形で暗転した。