「ねえ、私たちずっと一緒よ」
息を切らして、互いの額を合わせ、手を合わせ結び付けて。
この最悪の天気がまるで月明かりの演出みたいにガラス張りの部屋一面を祝福する。
「この上だ!」
バタバタと大人数の足音が階段を駆け上がる音が響く。ふたりがいる場所まではもう少しかかるだろう。
春の頬を涙が伝っている。涙の訳は考えられないし考えたくもなかった。
「わたし、わ、たし、_」
***
『ぼく、春に謝らなくちゃいけない事があるんだ』
昨日の朝方のこと。
もうすぐ、この生活も終わってしまう事が俄にわかにも考え難く、ずっと考えないように考えないようにしていたが、やはり無情にも時は流れていくわけで。
悲しいのか悔しいのか、怖いのか、つらいのか、どの感情にも当てはまらないこの気持ちに、春の心は空虚を彷徨っていた。
璃来のゆっくりと開かれた口からは震えた声が漏れる。
『あの、花火の夜。生きて、なんて無責任なこと言ってごめん』
その言葉に、春は黙り込んだ。
『春にとってどれだけ残酷な言葉だったか、ちゃんと理解できてなかったみたいでさ』
璃来は小さく息を吸い、意を決してその言葉を紡ぐ。
『ねぇ春。…死んでもいいよ。』
『___』
『春の人生は、春だけのものだから。ぼくに邪魔する権利なんてないから。春が幸せと思える未来を選んで』
何故か分からないが、どうしようもなく先が見えない。
璃来と笑い合う未来が、春には全く想像できなかった。
そうなる運命を予見していたかのように、霧に覆われて右も左も分からない感覚だった。
だから、その予感が嘘であってほしいと何度も願い、最悪の事態を想定する脳を呪い何度も頬を叩き鼓舞した。
のに。
その日の夜に璃来は、春が一番聞きたくなかったその全てを口にした。
絶望の二文字が春を襲い、息も忘れるほど混濁した。
『春の未来は絶対に明るいよ。春がぼくを忘れても、断片的な記憶でしかぼくを認識できなくなっても、きっと。たとえ、…たとえ春がどんな選択をしたとしても』
だけどいずれにせよ、結局は春にだって選択肢はなかったようなものだ。
春の世界は既に璃来を中心に回っていて、その心臓を動かしているのも璃来で。璃来に死という選択肢しかない時点で、春にだって死という選択肢しかなかった。
生きていれば現実が付き纏い、死んでも常世に縛られる。
「ねえ璃来…。どうしても、この世界で私たちが幸せになれることはないのかな…」
何度もふたりが願っても叶わなかったこと。
「私、幸せだったよ。璃来と過ごしたこの1か月間、私、ちゃんと生きていたの」
それは春の嘘偽りない本心だった。
きっと救われる世界未来はない。それはふたりが、お互いがいちばん解っていた。
もうすぐ夏だというのに凍えるほど寒気を感じ、手の震えが止まらなかった。全面ガラス張りの最上階で外側のバルコニーに出るドアがあるが、璃来も普段使わない筋肉を使ったことで手が痙攣するせいでピッキングが難航しているようだった。
階段を上がりきった何人もの警察や救急隊が続々と急行してくる。
雨水に濡れつたう水滴が、警官に向けられた懐中電灯の強い光を反射しきらりと瞬いた。首元にヒヤリとした感触と、汗か水滴かも分からない水が滴り落ちる。
「何やってるんだ!その銃を下ろしなさい・・・・・・・・・・!」
ふたりが扉を隠すように振り向くと開口一番に鬼たちはふたりを安心させる言葉でも嬉しそうな顔でもなくまっすぐな怒りと牽制を向けふたりに拳銃を向けていた。
それは、春が鬼たちにピストルを向けたからだった。時間稼ぎができるよう璃来が渡していたのだ。
だがピストルを握る春のその手は恐怖のあまり震え、鬼たちの目には今にも誤発射しそうなように見えていた。
「春、もう大丈夫だよ」
「璃来?早く、あけないとッ…っ」
璃来は左隣に座り込んだ春が両手で握りしめていたピストルを手錠の付いていない右手で貰い受け、その銃口を春の首元に宛てがった。
これはハッタリだ。だから銃弾なんて入ってないし、引き金を引いても打てやしない。それを知っているのはここにいる中で春だけだ。
「ぼくたちを引き剥がそうとしてる鬼たちに何も用はない。早く失せて」
そこで、春は初めからの物語を思い出した。
『今から君を誘拐する。君はぼくの為だけに生きて、ぼくからは逃げられない。』
『鬼ごっこだよ。保護者と警察鬼からぼくたちが逃げるゲームをしない?』
そうだった。途中で何もかも春は忘れていた。
「助けに来たんだ!もう何も恐れることは無い!君たちの未来は我々が保証する!」
上辺だけの綺麗事を並べ、じりじりと近寄ってくる彼らにふたりは顔を歪めた。
血反吐を吐くような努力でここまでやってきて、現実世界に戻るだなんて、考えただけでも背筋に悪寒が走る。
「もう大丈夫だ」
__ぷつん。糸が切れる音がした。この世界と春を繋ぎ止めていた唯一の糸が。
その言葉はあなたたちが簡単に口にしていい言葉じゃない。
彼らに対する抽象的で、だけど圧倒的な信頼と期待は泡のように崩れ去った。
期待した結果がこれだ。結局ふたりは世間に見放され、神に淘汰された存在だった。
「だから早くそれを捨てて此方に_」
「じゃあなんで銃を向けてるんだ!!」
璃来の叫び声が警官の言葉を遮った。
「この世で唯一味方になる、人々を守るべき存在が、なんで銃を向けるんだ!」
理由なんて璃来は理解していたしそんなことが鬼の口から聞きたいわけじゃなかった。これはただの強迫だ。
「何も解決できないくせに、ぼくたちの自由を奪っていい気になってるだけのくせに勝手に出しゃばるな!」
璃来が咆哮をあげた。噛み付く勢いで叫ぶ。
鬼たちはふたりについて洗いざらい調べあげ何もかも筒抜けだった。
あまりの不自然な剣幕で警察に対し畳み掛けると思えばたまたま近くですれ違ったときにはむしろ楽しそうに過ごす春の母親に対する春の家の近所に住む住人の噂話のことも。
母親が娘に暴力を振るっていることも。
家の外まで暴言が聞こえることも。
それから、璃来がもうすぐ死ぬことも。
里琴が璃来に幼い頃から保険金を掛けていることまで、全て。
だが、6月初めごろに防犯カメラにたまたま映ってしまった春と璃来がどんな態度であろうと凶器を向けられれば凶器で対抗する他ない。
人間の思考は何歳であれ豹変する可能性があるから、そこは仕方なかった。
そして鬼が『君たちの未来』と案じたのは、未成年だったから。まだやり直せると思ったから。
大丈夫だと言ったその言葉に、ふたりを本当の意味で助けるという善意など込められていなかった。
いくら喚こうとも、世間が、法が、国家権力の犬たちがそれを許さない。
どこからか狂い始めたふたりの思い込みが、お互い以外を全て悪なのだと、敵だと決めつけてしまっていた。歯車なんてもう正常に機能してなどいない。
未来を殺したふたりに、救いなんてものは最初から無かったのだから。
ひとりの警官が拳銃を発砲し、璃来と春を繋いでいた手錠に見事に命中する。古びた手錠だったこともあり脆く、手錠は壊れ大きな金属音を立てて床に落ちた。
それはまるで、運命が引き裂かれたみたいに。
璃来は覚悟を決め、春に囁いた。
「春、後ろのドアはもう開いてるから、一発撃ったら・・・・・・ドアを開けて外に出て。そしたら、一緒に行こう。此処じゃない場所に」
このピストルはハッタリなんかじゃなく、本物の銃だ。それが分かるということはつまり、璃来はこの銃を撃ったことがあるということ。
だがそこまで頭が回らない春は馬鹿みたいに笑って頷いた。
朝が来るのが怖くなくなったはずの春は、再び明けない夜を願っていた。今度は自分のためではなく、" 春の大切 " のために。" 春の大丈夫 " がその灯火を消さないために。
夜だけがふたりの唯一の居場所であり世界の全てだった。
息を切らして、互いの額を合わせ、手を合わせ結び付けて。
この最悪の天気がまるで月明かりの演出みたいにガラス張りの部屋一面を祝福する。
「この上だ!」
バタバタと大人数の足音が階段を駆け上がる音が響く。ふたりがいる場所まではもう少しかかるだろう。
春の頬を涙が伝っている。涙の訳は考えられないし考えたくもなかった。
「わたし、わ、たし、_」
***
『ぼく、春に謝らなくちゃいけない事があるんだ』
昨日の朝方のこと。
もうすぐ、この生活も終わってしまう事が俄にわかにも考え難く、ずっと考えないように考えないようにしていたが、やはり無情にも時は流れていくわけで。
悲しいのか悔しいのか、怖いのか、つらいのか、どの感情にも当てはまらないこの気持ちに、春の心は空虚を彷徨っていた。
璃来のゆっくりと開かれた口からは震えた声が漏れる。
『あの、花火の夜。生きて、なんて無責任なこと言ってごめん』
その言葉に、春は黙り込んだ。
『春にとってどれだけ残酷な言葉だったか、ちゃんと理解できてなかったみたいでさ』
璃来は小さく息を吸い、意を決してその言葉を紡ぐ。
『ねぇ春。…死んでもいいよ。』
『___』
『春の人生は、春だけのものだから。ぼくに邪魔する権利なんてないから。春が幸せと思える未来を選んで』
何故か分からないが、どうしようもなく先が見えない。
璃来と笑い合う未来が、春には全く想像できなかった。
そうなる運命を予見していたかのように、霧に覆われて右も左も分からない感覚だった。
だから、その予感が嘘であってほしいと何度も願い、最悪の事態を想定する脳を呪い何度も頬を叩き鼓舞した。
のに。
その日の夜に璃来は、春が一番聞きたくなかったその全てを口にした。
絶望の二文字が春を襲い、息も忘れるほど混濁した。
『春の未来は絶対に明るいよ。春がぼくを忘れても、断片的な記憶でしかぼくを認識できなくなっても、きっと。たとえ、…たとえ春がどんな選択をしたとしても』
だけどいずれにせよ、結局は春にだって選択肢はなかったようなものだ。
春の世界は既に璃来を中心に回っていて、その心臓を動かしているのも璃来で。璃来に死という選択肢しかない時点で、春にだって死という選択肢しかなかった。
生きていれば現実が付き纏い、死んでも常世に縛られる。
「ねえ璃来…。どうしても、この世界で私たちが幸せになれることはないのかな…」
何度もふたりが願っても叶わなかったこと。
「私、幸せだったよ。璃来と過ごしたこの1か月間、私、ちゃんと生きていたの」
それは春の嘘偽りない本心だった。
きっと救われる世界未来はない。それはふたりが、お互いがいちばん解っていた。
もうすぐ夏だというのに凍えるほど寒気を感じ、手の震えが止まらなかった。全面ガラス張りの最上階で外側のバルコニーに出るドアがあるが、璃来も普段使わない筋肉を使ったことで手が痙攣するせいでピッキングが難航しているようだった。
階段を上がりきった何人もの警察や救急隊が続々と急行してくる。
雨水に濡れつたう水滴が、警官に向けられた懐中電灯の強い光を反射しきらりと瞬いた。首元にヒヤリとした感触と、汗か水滴かも分からない水が滴り落ちる。
「何やってるんだ!その銃を下ろしなさい・・・・・・・・・・!」
ふたりが扉を隠すように振り向くと開口一番に鬼たちはふたりを安心させる言葉でも嬉しそうな顔でもなくまっすぐな怒りと牽制を向けふたりに拳銃を向けていた。
それは、春が鬼たちにピストルを向けたからだった。時間稼ぎができるよう璃来が渡していたのだ。
だがピストルを握る春のその手は恐怖のあまり震え、鬼たちの目には今にも誤発射しそうなように見えていた。
「春、もう大丈夫だよ」
「璃来?早く、あけないとッ…っ」
璃来は左隣に座り込んだ春が両手で握りしめていたピストルを手錠の付いていない右手で貰い受け、その銃口を春の首元に宛てがった。
これはハッタリだ。だから銃弾なんて入ってないし、引き金を引いても打てやしない。それを知っているのはここにいる中で春だけだ。
「ぼくたちを引き剥がそうとしてる鬼たちに何も用はない。早く失せて」
そこで、春は初めからの物語を思い出した。
『今から君を誘拐する。君はぼくの為だけに生きて、ぼくからは逃げられない。』
『鬼ごっこだよ。保護者と警察鬼からぼくたちが逃げるゲームをしない?』
そうだった。途中で何もかも春は忘れていた。
「助けに来たんだ!もう何も恐れることは無い!君たちの未来は我々が保証する!」
上辺だけの綺麗事を並べ、じりじりと近寄ってくる彼らにふたりは顔を歪めた。
血反吐を吐くような努力でここまでやってきて、現実世界に戻るだなんて、考えただけでも背筋に悪寒が走る。
「もう大丈夫だ」
__ぷつん。糸が切れる音がした。この世界と春を繋ぎ止めていた唯一の糸が。
その言葉はあなたたちが簡単に口にしていい言葉じゃない。
彼らに対する抽象的で、だけど圧倒的な信頼と期待は泡のように崩れ去った。
期待した結果がこれだ。結局ふたりは世間に見放され、神に淘汰された存在だった。
「だから早くそれを捨てて此方に_」
「じゃあなんで銃を向けてるんだ!!」
璃来の叫び声が警官の言葉を遮った。
「この世で唯一味方になる、人々を守るべき存在が、なんで銃を向けるんだ!」
理由なんて璃来は理解していたしそんなことが鬼の口から聞きたいわけじゃなかった。これはただの強迫だ。
「何も解決できないくせに、ぼくたちの自由を奪っていい気になってるだけのくせに勝手に出しゃばるな!」
璃来が咆哮をあげた。噛み付く勢いで叫ぶ。
鬼たちはふたりについて洗いざらい調べあげ何もかも筒抜けだった。
あまりの不自然な剣幕で警察に対し畳み掛けると思えばたまたま近くですれ違ったときにはむしろ楽しそうに過ごす春の母親に対する春の家の近所に住む住人の噂話のことも。
母親が娘に暴力を振るっていることも。
家の外まで暴言が聞こえることも。
それから、璃来がもうすぐ死ぬことも。
里琴が璃来に幼い頃から保険金を掛けていることまで、全て。
だが、6月初めごろに防犯カメラにたまたま映ってしまった春と璃来がどんな態度であろうと凶器を向けられれば凶器で対抗する他ない。
人間の思考は何歳であれ豹変する可能性があるから、そこは仕方なかった。
そして鬼が『君たちの未来』と案じたのは、未成年だったから。まだやり直せると思ったから。
大丈夫だと言ったその言葉に、ふたりを本当の意味で助けるという善意など込められていなかった。
いくら喚こうとも、世間が、法が、国家権力の犬たちがそれを許さない。
どこからか狂い始めたふたりの思い込みが、お互い以外を全て悪なのだと、敵だと決めつけてしまっていた。歯車なんてもう正常に機能してなどいない。
未来を殺したふたりに、救いなんてものは最初から無かったのだから。
ひとりの警官が拳銃を発砲し、璃来と春を繋いでいた手錠に見事に命中する。古びた手錠だったこともあり脆く、手錠は壊れ大きな金属音を立てて床に落ちた。
それはまるで、運命が引き裂かれたみたいに。
璃来は覚悟を決め、春に囁いた。
「春、後ろのドアはもう開いてるから、一発撃ったら・・・・・・ドアを開けて外に出て。そしたら、一緒に行こう。此処じゃない場所に」
このピストルはハッタリなんかじゃなく、本物の銃だ。それが分かるということはつまり、璃来はこの銃を撃ったことがあるということ。
だがそこまで頭が回らない春は馬鹿みたいに笑って頷いた。
朝が来るのが怖くなくなったはずの春は、再び明けない夜を願っていた。今度は自分のためではなく、" 春の大切 " のために。" 春の大丈夫 " がその灯火を消さないために。
夜だけがふたりの唯一の居場所であり世界の全てだった。
