都会の中心地、50階建てのマンションの最上階。とっくに日は沈み、時計の針は20時をまわり秒針音が耳に届いている。窓から外を眺める。真っ暗闇にネオンの光がぽつぽつと光っている。光が水滴で滲み出す。雨だ。雨音の中で救急車のサイレンが鳴り響いている。この先ずっと、このままが地続きに続いてゆくんだ。
サイレンの音が遠ざかり、それから、
春の世界から急速に色が消えた。
そこで、何かがぷつんと切れる音がした。
もう、だめだと思った。
サンダルを突っ掛けて駆け出すように玄関を飛び出した。さっき外は雨だと春は自分で思っていたのに傘も持たずに。半袖短パンのパジャマにカーディガンを羽織って足元はサンダル、傍から見たらおかしな格好だったが、今はそんなことに構ってる暇はなかった。
死ななきゃ。私もうやってけない。
マンションの階段を駆け下りてエントランスを出れば夜の住宅街を歩く。雨音が直接鼓膜をダイレクトに刺激し、髪を濡らす。不意に襲い来る緊張感で心拍数が上昇し呼吸が浅くなる。一度立ち止まれば一歩も歩けなくなる気がして、立ち止まりたくなる衝動を必死に抑え揺れる視界の中あてもなくただどこかを目指していた。
見通しの悪い交差点に車のライトが近づいてきて一度足を止めた。息が切れ、膝に手をつく。息がこぼれる。
ふと左に視線を向けると、外灯の切れかけた公園が見えた。幼少期によく訪れていた見慣れた公園だった。鉄製の遊具は塗装が剥がれ錆び付いて砂場は雑草に埋もれ、いくつかは撤去されていた。
春はそこでようやく冷静さを取り戻す。
緊張や恐怖を少しでも和らげようと、公園に立ち寄った。
壁に雑草が這う屋根のあるところに入り、テーブルみたいな四角い木製のベンチに腰掛ける。木造の古びた屋根に雨が当たり、地面の水溜まりに滴り落ちぽたぽたと音を奏でる。
「はぁ…。なにしてんだろ、ほんと」
俯いて両手で顔を覆い、何度目かの溜め息を零した。
その日は土曜日で、夜で、あと数時間もすれば春の母親が家に帰ってくる。
ただ両親は春に対して一切の関心を持たないから春がいなくなろうが死のうがどうでもいいのだ、あのふたりにとって一番の問題は世間体だ。
一人娘が自ら命を絶ったなんて広まれば顔に泥どころじゃ済まないだろうな。そんなことを考えて笑っている自分がいた。高揚感を覚えた自分がいた。心底気持ち悪いと思った。
雨の空気を大きく吸い込んで吐き出す。先程よりも気分がすっきりしていた。
其の儘後ろに倒れ、腕で顔を覆う。心の中で泣いている自分を殺して目を閉じる。
「_よし、いこう」
口からこぼれた言葉を自然と受け入れていた。拒否反応は一切なかった。
灰色の世界が、崩れ出す。
「ねえ、君。」
春はびく、と肩を震わせ、がばっと起き上がり声のしたほうを向くと、ビニールの傘をさして春を真っ直ぐ見つめる人物がいた。そして、口を開く。
「この世で一番重い罪って何か知ってる?」
「っ、だれ…」
「ぼく?ぼくは幽霊だよ」
「ゆう、…? 死んでるの?」
「まあ幽霊と大差ないかな。とりあえずそんなことはいいからさ、質問に答えてよ」
頭のおかしい子に絡まれた。質問に答えろと急かされる。
春はよく分からないと言った顔で、ぼそりと呟いた。
「人を、殺すこと…」
彼女はにこりと笑う。
「あー、ざんねん。」
開いたままのビニール傘をベンチの隣に方って、隣に腰かけて三角座りをした彼女は膝に顎をのせている。目が合わなくなった。だから春も、正面にある切れかけの外灯をもう一度眺めた。話しかけてはいけない気がした。
「こたえは、自分の命を殺すことだよ」
ばっ、と、春は彼女を見る。また、目が合う。
「なんで今死のうとしたかわかったの…?」
春の呟いた声は小さすぎて聞こえなかったはずだった。彼女は笑った。
「ぼくと同じ顔してたから」
ぼそりと呟かれた彼女の声は雨の音にかき消されて春には聞き取ることは出来なかった。そんなことよりも、無責任に自分を引き留めた彼女の責任の方が春にとって何よりの重大事項だった。
「はあ、なに、勝手なこと言わないで、私のことなんにも知らないくせに…。狡いよね、何も考えずのうのうと生きていられる人はさ」
黙って彼女は春の話を聞いていた。
「親に暴言吐かれたことも避けられたことも、朝学校来て机の上に花が刺さった花瓶が置かれたことだって一度もないんでしょう?」
春の声は震えていた。
「あなたみたいな能天気なお人好しが、私はいちばん嫌いなの。」
最悪だ。やってしまった、と思った。春は初対面の人に洗いざらいぶちまけてしまった。少なからず自分に寄り添ってくれた人を貶す自分にどうしようもなく嫌気がさした。
すると、すくっと彼女は立ち上がり上を見上げる。
「ねえ、きみが捨てようとしたその命、ぼくにくれない?」
「…え?」
手を差し伸べられる。
「一緒にエスケープしよう」
「っ話、聞いてなかったの?私、嫌いだって言ったの」
「ぼくはお人好しなんかじゃないよ」
「死のうとした人間に関わる人なんて余っ程お人好しだよ」
俯く。もう顔もあげられそうにない。自責の念に駆られ、心が先に死んでしまいそうだ。
「じゃあ、こうしよう」
また彼女が提案を掲げる。もう嫌になったのに、心の中に燻るほんの僅かな希望に期待してしまっている自分がいた。そいつが彼女の言葉に耳を傾けていた。
「今から君を誘拐する。君はぼくの為だけに生きて、ぼくからは逃げられない。こんな奴お人好し?」
頭に誘拐の二文字が浮かぶ。春がそれを口にすることはなかったが、彼女はそれらを察していた。
「鬼ごっこだよ。親と警察_鬼から逃げるゲームをしない?」
顔を上げて春は彼女を見る。突拍子もない巫山戯た物言いに、目をぱちくりさせ、呆れて笑ってしまった。もう、なんかいろいろ春はこの少女に出会った時点で何もかもがどうでも良くなってしまっていたのかもしれない。そう思った。
「なにそれ…っふふ、面白そう。わかった、その話のった!」
どうせ捨てようとした人生だ。もうどうなろうが知ったこっちゃない。彼女の手をとると春はふわりと立ち上げられた。まるでお姫様にでもされた気分だった。
灰のように崩れかけた世界で、唯一彼女だけが輪郭をもっての春の前に現れた。
春は、この世界から救い出してくれる誰かを求めていたのかもしれない。
長い長いあなたとの余生が始まった。ちょうど、梅雨入りした日のことだった。
サイレンの音が遠ざかり、それから、
春の世界から急速に色が消えた。
そこで、何かがぷつんと切れる音がした。
もう、だめだと思った。
サンダルを突っ掛けて駆け出すように玄関を飛び出した。さっき外は雨だと春は自分で思っていたのに傘も持たずに。半袖短パンのパジャマにカーディガンを羽織って足元はサンダル、傍から見たらおかしな格好だったが、今はそんなことに構ってる暇はなかった。
死ななきゃ。私もうやってけない。
マンションの階段を駆け下りてエントランスを出れば夜の住宅街を歩く。雨音が直接鼓膜をダイレクトに刺激し、髪を濡らす。不意に襲い来る緊張感で心拍数が上昇し呼吸が浅くなる。一度立ち止まれば一歩も歩けなくなる気がして、立ち止まりたくなる衝動を必死に抑え揺れる視界の中あてもなくただどこかを目指していた。
見通しの悪い交差点に車のライトが近づいてきて一度足を止めた。息が切れ、膝に手をつく。息がこぼれる。
ふと左に視線を向けると、外灯の切れかけた公園が見えた。幼少期によく訪れていた見慣れた公園だった。鉄製の遊具は塗装が剥がれ錆び付いて砂場は雑草に埋もれ、いくつかは撤去されていた。
春はそこでようやく冷静さを取り戻す。
緊張や恐怖を少しでも和らげようと、公園に立ち寄った。
壁に雑草が這う屋根のあるところに入り、テーブルみたいな四角い木製のベンチに腰掛ける。木造の古びた屋根に雨が当たり、地面の水溜まりに滴り落ちぽたぽたと音を奏でる。
「はぁ…。なにしてんだろ、ほんと」
俯いて両手で顔を覆い、何度目かの溜め息を零した。
その日は土曜日で、夜で、あと数時間もすれば春の母親が家に帰ってくる。
ただ両親は春に対して一切の関心を持たないから春がいなくなろうが死のうがどうでもいいのだ、あのふたりにとって一番の問題は世間体だ。
一人娘が自ら命を絶ったなんて広まれば顔に泥どころじゃ済まないだろうな。そんなことを考えて笑っている自分がいた。高揚感を覚えた自分がいた。心底気持ち悪いと思った。
雨の空気を大きく吸い込んで吐き出す。先程よりも気分がすっきりしていた。
其の儘後ろに倒れ、腕で顔を覆う。心の中で泣いている自分を殺して目を閉じる。
「_よし、いこう」
口からこぼれた言葉を自然と受け入れていた。拒否反応は一切なかった。
灰色の世界が、崩れ出す。
「ねえ、君。」
春はびく、と肩を震わせ、がばっと起き上がり声のしたほうを向くと、ビニールの傘をさして春を真っ直ぐ見つめる人物がいた。そして、口を開く。
「この世で一番重い罪って何か知ってる?」
「っ、だれ…」
「ぼく?ぼくは幽霊だよ」
「ゆう、…? 死んでるの?」
「まあ幽霊と大差ないかな。とりあえずそんなことはいいからさ、質問に答えてよ」
頭のおかしい子に絡まれた。質問に答えろと急かされる。
春はよく分からないと言った顔で、ぼそりと呟いた。
「人を、殺すこと…」
彼女はにこりと笑う。
「あー、ざんねん。」
開いたままのビニール傘をベンチの隣に方って、隣に腰かけて三角座りをした彼女は膝に顎をのせている。目が合わなくなった。だから春も、正面にある切れかけの外灯をもう一度眺めた。話しかけてはいけない気がした。
「こたえは、自分の命を殺すことだよ」
ばっ、と、春は彼女を見る。また、目が合う。
「なんで今死のうとしたかわかったの…?」
春の呟いた声は小さすぎて聞こえなかったはずだった。彼女は笑った。
「ぼくと同じ顔してたから」
ぼそりと呟かれた彼女の声は雨の音にかき消されて春には聞き取ることは出来なかった。そんなことよりも、無責任に自分を引き留めた彼女の責任の方が春にとって何よりの重大事項だった。
「はあ、なに、勝手なこと言わないで、私のことなんにも知らないくせに…。狡いよね、何も考えずのうのうと生きていられる人はさ」
黙って彼女は春の話を聞いていた。
「親に暴言吐かれたことも避けられたことも、朝学校来て机の上に花が刺さった花瓶が置かれたことだって一度もないんでしょう?」
春の声は震えていた。
「あなたみたいな能天気なお人好しが、私はいちばん嫌いなの。」
最悪だ。やってしまった、と思った。春は初対面の人に洗いざらいぶちまけてしまった。少なからず自分に寄り添ってくれた人を貶す自分にどうしようもなく嫌気がさした。
すると、すくっと彼女は立ち上がり上を見上げる。
「ねえ、きみが捨てようとしたその命、ぼくにくれない?」
「…え?」
手を差し伸べられる。
「一緒にエスケープしよう」
「っ話、聞いてなかったの?私、嫌いだって言ったの」
「ぼくはお人好しなんかじゃないよ」
「死のうとした人間に関わる人なんて余っ程お人好しだよ」
俯く。もう顔もあげられそうにない。自責の念に駆られ、心が先に死んでしまいそうだ。
「じゃあ、こうしよう」
また彼女が提案を掲げる。もう嫌になったのに、心の中に燻るほんの僅かな希望に期待してしまっている自分がいた。そいつが彼女の言葉に耳を傾けていた。
「今から君を誘拐する。君はぼくの為だけに生きて、ぼくからは逃げられない。こんな奴お人好し?」
頭に誘拐の二文字が浮かぶ。春がそれを口にすることはなかったが、彼女はそれらを察していた。
「鬼ごっこだよ。親と警察_鬼から逃げるゲームをしない?」
顔を上げて春は彼女を見る。突拍子もない巫山戯た物言いに、目をぱちくりさせ、呆れて笑ってしまった。もう、なんかいろいろ春はこの少女に出会った時点で何もかもがどうでも良くなってしまっていたのかもしれない。そう思った。
「なにそれ…っふふ、面白そう。わかった、その話のった!」
どうせ捨てようとした人生だ。もうどうなろうが知ったこっちゃない。彼女の手をとると春はふわりと立ち上げられた。まるでお姫様にでもされた気分だった。
灰のように崩れかけた世界で、唯一彼女だけが輪郭をもっての春の前に現れた。
春は、この世界から救い出してくれる誰かを求めていたのかもしれない。
長い長いあなたとの余生が始まった。ちょうど、梅雨入りした日のことだった。
