深夜の逃避行劇

あれから誰もいない砂浜で寝て、太陽が真上に昇る頃にまた道を進みだした。船の汽笛が聞こえ、遠くで大型の船舶を見た。

海沿いの道はまだまだ続いていた。人のいなかった海は日が暮れてからもすれ違う人は釣り人くらいで、海の反対を見渡しても並んだ木の隙間から見えていた高い建物は八江町に向かうにつれほとんど見えなくなっていった。

海のすぐ横を走る高速道路をたくさんのトラックが通過してゆく。冷たい海風が吹きつける。星が瞬く空のもと、ふたりは何故か犬を連れて散歩中の老爺と一緒に散歩していた。

その大型犬はふたりと出会った瞬間春にダイブで飛びかかり、春と璃来に交互にすり寄って離れようとしなかった。老爺の言うことを聞かない犬は春たちが歩けばついていこうとするため、そんな流れで。


「すまんなあ、老犬じゃし普段はおとなしいんじゃがなあ…」

「この子なんて名前ですか?」

太郎(タロー)じゃよ」


犬は嬉しそうにワンと吠える。


『タロー!』


その時春は懐かしい記憶を思い出しかけたが、ふっと泡のように爆ぜて消えた。

老爺が持った唯一の光源である懐中電灯が足元を照らす。
それからふたりは老爺とさざ波の音を聞き犬と戯れながら他愛のない話をして気づけば1時間ほど時間を共有していた。


「そろそろ家に帰るとするかの」


何かを察したような犬がクゥーンと鳴き出しその場に伏せた。
そうしてその場で別れるつもりだったが、突然犬がふたりの間をすり抜け勢いよく走り出したのだ。一瞬のことで油断した老爺の握っていたリードが手から離れ、瞬く間に犬は小さく遠くへ走ってゆく。
ふたりは老爺に待つように言い犬を追いかけて走りだした。

ものすごい速さで走っていた犬はたびたび振り返りながら追いかけるふたりに追いつかれない速度を保ちながら走っている。まるでついてこいと言っているみたいに。

前を走る璃来の少し後ろから犬を追いかける春の粗くなった呼吸が息を吸うたびに冷たい空気を肺に送る。冬でもないのに白い息が口からこぼれる。

そうしてようやく犬が止まる。
振り返ってふたりを待っていた場所は、高速道路を照らす街灯が届かない砂浜のど真ん中の真っ暗闇だった。

この地は砂浜の場所が多く砂丘のようになっており、犬の首輪に付けられた僅かな明かりを頼りに足元を掬われながらふたりはそれ以上逃げない犬の元へ近づく。
ふたりして肩で息をしながら犬に話しかけると、犬は遠吠えをあげた。


「…………海が…」


穏やかな波が揺蕩う海一面が青白い光で発光し光り輝いていた。この光の正体は夜光虫だ。
雲のみならず地上、海に至るまでもが、まだ低い位置の空に浮かぶ細い三日月の眩しいくらいに明るい光を反射し、かつてないほど幻想的な景色を作り出している。

この景色を、春は一度見たことがある。


「…………………タロー……?」

「ワォーン!」


それは春が小学2年生の頃。家出をしたあの日この場所で、春はある一匹の野良犬に出会った。
毛並みはぼさぼさで薄汚れ、首輪もない捨てられた子犬に。


『わんちゃんは、ひとりぼっちなの?』

『じゃあ、わたしがずっと、ずぅっといっしょにいてあげる!』

『うーん、名前はなにがいいかなあ…そうだ!オスだから、タロー!』


今考えればとても安直な名前に、タローは嬉しそうに吠えたのだった。
今でも春は、タローの体温の暖かさをよく覚えている。


「小学生の時、まだ子犬だったタローと一緒にこの景色を見て、約束したの」


" お互い大事な人を連れて、また一緒に見に来ようね " 。

春がいつの間にか忘れていた約束を、タローはずっと覚えていた。
タローの初めての救世主は、春だったから。


「タロー、紹介するね。私の大事な人」


タローがふたりの周りをくるくる回る。しゃがんで撫でようとした璃来に嬉しそうにすり寄った。

そして、遅くなって心配した老爺がやってきたところに、タローが駆け寄り足元におすわりし、誇らしげな顔で春を見つめた。
そんなタローに春は顔を綻ばせて笑った。約束を叶えられてよかったという思いを噛みしめながら。


「お嬢さんたち、これ持っていきなさい。夜の海は暗いからの」


老爺の気遣いを一度は断るも、孫が迎えに来るからと言って引かず懐中電灯を貰った。


「じいちゃーん、やっぱここにいたー。帰…ぇぇえええうわあっ!」


迎えに来た孫らしき中学生くらいの少年にタローが飛びかかり少年が砂浜にタローと一緒に倒れた。

それはふたりを守るために。逃がすために。

その隙に璃来が老爺にお礼を言い、春は頭を下げて走ってその場を後にする。
なんとなく春はもうタローには会えない気がして、だけど振り返りたくなる衝動を必死に抑えて走り続けた。

上空の夜空を地上1万メートル離れた飛行機が赤や黄、白のライトを明滅させながら通過してゆく。