深夜の逃避行劇

『…まあ、だから…、大切な人には死んでほしくない。…。そうですね。…から…。、…ですよ。ずっとずっと長生きしてほしいですね』


深夜の特番。
夜中だけの洒落た音楽も賑やかなだけの笑い声もない、ゆったりとした空気に似合うような番組。
掠れたラジオから顔も知らないどこかの誰かの、少し嗄しわがれた声が、夜の静かな風に擦れる草木と共にふたりの耳に届く。電波が弱く、ラジカセ特有のザザ…という雑音が声を遮る。
ラジオ塔が近くにあるお陰でなんとか音を拾っていた。


" 生きてね、春 "


ふと、あの花火の日に璃来に言われた言葉が脳裏に蘇る。
何の気なしに零れた言葉だということは、痛いくらい分かっていた。でも、同時に胸が締め付けられるような思いもあった。

ラジオ越しにどこかのスタジオで青年と話すこの老婆も璃来が春に零したこの言葉も、同じ意味である事に春はどこかで気付いていた。
その意味を正確に理解してしまうことを恐れた春は、あの夜璃来に対して何も口にすることができなかった。

今の今まで散々私を振り回したくせに。
私の人生貴重な時間を奪っておいて、今更抜けがけしようなんて。
死のうとした私に生きてほしいだなんて。

死ぬより辛いことがこの世にたくさんある事なんて、貴女は知らないんでしょう。
余命宣告された人だとか、もうすぐ終わりが来る人の綺麗事なんて、この先終わりの見えない真っ暗闇を生きていかなければならない、このクソみたいな現世に縛られて生きる人に響くわけが無いじゃないか。


「今更、私を置き去りにするなんて許さないから」


その言葉だけが璃来の耳に届いたようで、璃来は驚いたような顔をして春を見た。
璃来にとっては突然の春の言葉に理解が出来ないのは当然のことで。
だけど璃来は優しいから。真剣な表情でそう言った春を茶化したり知らないふりもしなかった。
ただ、にっこりと笑ってみせた。


『、…は、最後に、お寄せいただいたメッセージを読んでエンディングに移ろうと思います。今回もたくさん届きました。ありがとうございます。…』


月が半分欠けている。きっと明日には半月が見られるのだろう。右側が欠けた月は下弦の月だと、聞いたことがある。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。

大事なことも少しずつこうやって忘れてしまうのだろうか。
私が生きていた証は、誰の記憶にも残らず死んでゆくのだろうか。
今はそれが、寂しいと思う。

それから時刻は夕方を回る。途中で通った公園のパーゴラの下の背もたれのないウッドベンチに座り、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。

車ばかりで人通りの少ない道ということも手伝って、誰にも睡眠を邪魔されることなくふたりは夕方まで眠りこけてしまっていた。
数日前から完全に昼夜逆転していたふたりの行動時間はもっぱら夜だった。

公園を出てからは暫く入り組んだ住宅街を進む。街路灯は光を灯し、家の窓から明かりが漏れ始め、夕飯の温かい匂いが鼻孔をくすぐる。赤ん坊の泣き声が聞こえる。

空に月が昇り、雲の隙間から星が瞬く。ふたり分の足音が舗装されていないコンクリートを鳴らしている。あまり冷たくない風が吹き、春の終わりを感じさせる。


「足、どう?」

「昨日よりは平気になったよ」

「そっか」


璃来はそれが春の強がりだという事を理解したうえでそれだけを口にした。
自身が春の羽根を捥いでしまわないように。
すべて放棄して、なにもかも放り出して諦めてしまわないように。


心配(めいわく)かけないでよ、もうあなたは大丈夫・・・でしょ?』


命を絶つときって、辛い気持ちが積もりに積もって爆発する瞬間じゃなくて。ふとした時、あ、なんかもういいや、ってなる瞬間人は死ぬんだと思う。

いつもの日。同じ朝。同じ景色。
だけどいつもと違う何かは必ずあって。思考がパッとクリアになって、その瞬間 " 大丈夫 " になる。
まるでこの世界の全てを知った気になって。


「璃来、私、大丈夫だからね」


その言葉は、真っ赤な嘘で固められた、璃来にとっての呪いの言葉だった。


「春のことは、ぼくが一番わかってるから」


春の大丈夫呪いは、決して理解してはいけない。春の強がりを引き金にしてはいけない。
その大丈夫が呪いにならないように、積もった雪が崩壊しないように。

コンクリートの塀を隔てた向こう側は墓地になっている。不気味なくらいに静かで、耳鳴りがやまない夜だった。
この道を歩き続ければ、夜が明ける前には市を跨ぎ都会に入る。その街を越えるとようやく八江町だ。まだ道のりは途方もないほどに長い。

住宅が徐々に減り、車通りの少ない道路に出る。脇には建物が取り壊されて更地にされたらしき空間があり、大きめの青いスーツケースが捨てられていた。それを覆うように草木が伸び、月日の流れを思わせる。

守りたいものができると人は強くなれるが、途端にそれが弱点になる。足手まといになる。
だから、無くしたくなかったはずの思い出とともに過去を捨てた。

璃来はもう、大丈夫になってしまっていた。