深夜の逃避行劇

「バイシュンフ!」


幼いながらその意味を理解できなかった春が、最初に他人から悪意を持った感情を向けられ傷つけられた言葉。

春が中学生になったある日、それは突然の事だった。

売春婦なんて、やってない。
ただ、春の名前から何かを誤解した同級生が、噂を流し、次第に悪い方へと流れ着き、春を囃し立て後ろ指を指したのだ。
言葉を覚えたばかりの知能の低い子供たちは、意味も知らずに使いたがる。平気で人を傷つける。
そして、鋭利な刃物で心を抉る。そうして春は、今もずっと塞がらない穴を貼り付けた笑顔で隠している。

春は祖母が名付けてくれた自分の名前が好きだった。
暖かい心地の良い空気に包まれる春が、動物たちの喜び駆け回る春が、始まりの春が。大好きだった。


『春は始まりの季節。出会いと別れの季節なんだよ。春ちゃんにはそういうたくさんの人との関わりを経験して愛に溢れる子に育ってほしいな』


私の名前は春。季節の、春。
私の春は私だけのものなの。
私の名前を、汚さないで。

母親からの執拗なまでもの罵りが無かったのは、中学に上がってすぐに母の仕事の昇進が決まり家にいることが極端に減ったためだった。同時期からも干渉が無くなったこともあり、春の心は次第に空っぽになっていった。