足を洗うというのはこの界隈特有の表現だ。

「え? どうしてそんなことをいうの? 別に18禁じゃないよ! 少しブロマンス入っているぐらいで!」
「ううん。そんなことはわかってるって。女性向けの健全本でしょ。でも理由があるのよ」
「まさか…… 逆カプ?!」
「そう! 普通疾風が攻めで環が受けじゃないかなー!」
「結とはいつもカップリングは反対よね!」

 カップリングの受け攻めが逆転した場合、埋まらない溝がある。

「って。違う。ちゃんとした理由があるの」

 話が逸れ始めて軌道修正を試みる結。いつになく真剣な表情に怯む更紗だ。

「な、何よ。教えてよ。いきなりジャンルやめろなんて。結が言うわけないもの」
「死なないでね?」
「死なない死なない」

 くすっと笑う更紗。結が鬼気迫る表情をしているからだ。

「環役の天海ソウね。うちの蒼真なの」
「え?」

 言葉の意味が理解できない更紗。

「公開されていないけどさ。本名は水野蒼真。あんたが面倒見ていた子供よ」
「はぁ?」
「間抜け面しないで。あと声が大きい」
「蒼真君とは名字が違うし」
「芸名に決まっているでしょ! あんたは蒼真の記憶、七歳で止まっているよね。当然か」
「ちょっと待って。人生最大の衝撃で、脳が沸騰してる」
「わかるー」

 他人事のようにあっけらかんとしている結。

「わかるー、じゃないよ! なんで教えてくれなかったのよ!」
「芸能界には守秘義務ってもんがあるでしょう。あんたも知ってるでしょ」
「本当に死にそうだよ!」

 結は自分を殺すつもりできたのかと本気で思った更紗だ。

「だから言ったじゃない!」
「あのソウ君が蒼真君……?」

 更紗が面倒を見ていた子供だ。昨日のことのように思い出される。
 幼き蒼真と天海ソウが結びつかないのだ。

(いや、まって。面影はある…… あるあるー。なんで気付かなかったの?!)

 蒼真が幼稚園のときには、一緒に風呂まで入ったことがある仲だ。
 推しと一緒に風呂に入ったことがある事実に気が遠くなる更紗。
 
「こんな嘘ついても仕方ないでしょ」

 紅茶を一口飲み、続ける結。

「それでね」
「まだ何かあるの?」
「蒼真の部屋でみちゃった」

 複雑そうな母親の表情を見せる結。

「エロ本か何か?」
「それだったらどんなに良かったか。男の子だし」
「どういう意味?」
「女性向けの薄い本があったの。作者の名はさらさら」
「――」

 顔に縦線が入る更紗。言葉を失った。

「わかる? どうしてもあんたに会わないといけなかった理由が」
「わかった。いつになく必死だった理由が……」

 顔の引きつりが止まらない更紗だった。

「あんたの、というのが問題よね」
「そんな。ナマモノは関係者禁じゃ……」
「もうそんな時代じゃないよ。そんなローカルルールなんて私達の数世代前ぐらいじゃないの? 池袋に通っていたから私にはわかる。ナマモノ系は地下に隔離されていることも多かったけどさ」
「なんでオタ活してんのよ! 貴腐人かよ!」

 逆ギレしはじめた更紗に、ムキになって言い返す結。

「結婚したからってすぐに嗜好が変わるわけないでしょ!」
「……三つ子の魂百までっていうものね」
「魂が腐りきっているってことをいいたいの? あんたも同類でしょ!」
「結の家の壁になりたい……」
「やめなさい。洒落になってないから」
 
 ひたすら話が逸れ出す二人。よくあることだ。
 こほんと咳払いして落ち着きを取り戻す結。

「というわけで。あんたもさ。昔一緒にお風呂入ってた子のブロマンス描いてたなんて、ショックを受けると思って」
「ショックどころか呼吸が止まりそう。現実が追いつかないよ」
「現実なの」

 諭すような顔になっている結。

「じゃあなに? あの蒼真君がユーノーボーイコンテスト優勝して剣道二段。ガントレットストライカー紫雷のオーディションで審査員たち満場一致で合格した演技の天才。文武両道な新鋭の特撮俳優でしたーとでもいうの?」
「さすがに詳しいね。そうなのよ。ガントレットストライカーの厳しいオーディションを勝ち抜いて抜擢された特撮俳優ね。母親としても鼻が高いわ」
「あっさり言うなし!」

 言葉遣いがだんだんあやしくなる更紗。

「黒いおねーさんが言葉遣い変になったって蒼真に告げ口するわよ」

 ジト目で更紗を睨む結。

「やめてください。お願いします。いや、もういっそこの世から消えよう。そうしよう」
「大げさね。ペンネームそのままでジャンルを変えたらいいじゃない」

 結も本気で死ぬとは思っていない。この場合は同人作家として、ということは理解している。

「あっさりいわないでよね。こう思い入れというか、熱いものがないと同人誌は書けないから」
「あんたいつも強火よね。ガチ恋勢だし。本を見ただけでわかるわ。でも事情がね……」
「初耳だもん……」
「それにね。今度こそあんたの息の根を止めることになると思うんだけど」
「これ以上殺さないで?」
「ガントレットパンチ級の必殺技よ。あなたは生きて関西に帰宅できないレベルじゃないかな」

 息を大きく吸い、ふうと吐き出す結。

(本気で私を殺しにくる時のあれだ。以前は妊娠したから退学するって話を切り出されたし!)

 更紗も最大限の警戒をする。

「蒼真がね。黒いおねーちゃんに会いたがっている」
「へ?」
「黒いおねーちゃんとの約束を果たしたって。本物のガントレットストライカーになったから報告したいって」
「待って。そもそもいつもゴスロリ着てたわけじゃないよ? 知っているでしょ?」
「黒い綺麗なおねーちゃんだった時と約束したって言ってるよ。いつそんな約束をしたのよ?」
「待って待って」

 蒼真との記憶を思い出す。

(あれは――)

 おもちゃの手甲を手に入れて跳ね上がって喜ぶ蒼真の姿が思い出される。

「……あるわ」
「だよね。蒼真が嘘言うわけないし」
「あなたたちがクリスマスに家いないし。ガントレットストライカーのおもちゃが手に入らなかった時、ライブ帰りに渡したよ。蒼真君喜んでた」

 クリスマス。夜間高校に通っている結と仕事で忙しい旦那。更紗はV系バンドのライヴ帰りだったが、結がおもちゃのガントレットが手に入らないと聞いて取り急ぎ、自分用に確保していたガントレットを蒼真にプレゼントしたのだ。
 一人ぼっちだった蒼真は、更紗も大満足するほど大喜びしていた。

「雪が降るクリスマスの日に、両親が仕事でいない中、いつも遊んでくれるおねーちゃんが幻想的な黒装束に身を包んで欲しがってたおもちゃを買ってきた。そりゃインパクトあるでしょうよ。その後もずっと言ってたし。ていうか今もたまに思い出したように言う」
「そこまで?!」
「おねーちゃんが変身した日といってたし」

 更紗は思わず両手で顔を覆う。
 記憶の片隅に、確かに蒼真との思い出は残っていたのだ。