リシェルは、兄の婚約者サシャと共に、ボードン侯爵家のタウンハウスでの夜会に来ていた。リシェルはダークブラウンの上着を着て金髪をきっちりと結びさらに例の伊達メガネをかけている。近寄りがたさを演出するにはとても役に立つアイテムである。

「リシェル様、いくらなんでも緊張しすぎですわ。」
それでもエスコートしているサシャには、リシェルの社交初心者ぶりはバレバレであった。
「サシャ様、夜会のようなところは学園の卒業パーティー以来なのです。その前は王宮でのデビューの舞踏会で、今日が3回目なのですよ。緊張するなというのが無理です。」
リシェルは大きなため息をついた。絶対にジェシーの方が適任だったのに。

 会場の入口付近でリシェルが緊張して佇んでいると、後ろから歩いてきた人物に、ドン!とぶつかられた。痛くて左肩を押さえている間に、その人物は中央にずんずんと歩いて行く。
「なんなの?あれ。」
「リシェル様、大丈夫ですか?」
「ぶつかっておいて挨拶なしとか、酷いな。」
「何を慌てていらしたのかしらね。」
「まったくだよ。」
リシェルはぶつかって来た人物に覚えはなかった。

 しばらくすると会場の前方からざわめきが伝わる。夜会の開始の挨拶はまだなのに、何が起こっているのだろう。

「…………」
どうやら一方的に婚約破棄しているようだと気づく。
「酷いわね。」
「そうですね。何もこの場でなくとも良かったと思います。」
 サシャとリシェルが小声で話していると、向こうから女性が早足でやってきた。ハンカチを頬に当てているが涙を流しているのだろう。
 と思っていたら、女性がふとリシェル達の近くで顔を上げた。その頬が赤くなっている。
「ルーナ?」
知っている人物に似ていたので、リシェルは名をつぶやいてしまった。多分本人だったのだろう。呼ばれた女性は肩をびくりとさせて、急ぎ足で外に出て行った。