死にたいから、猫を飼った。正しくは、拾った。
電柱の下のみかんの段ボール箱。
見窄らしく痩せ細った黒猫。
僕は嬉しかった。当てもなく夜道を彷徨っていた僕の、一筋の希望だった。僕たちは見捨てられた者同士。
「帰ろう」
僕は猫を抱きかかえた。
それからこの仔は僕の生き甲斐になった。
ボソボソだった毛はふわふわになった。くりくりした目に、甘い声で鳴いた。
出費は増えたけど、幸せだった。この幸せが続くならそれでいい。僕は、構わない。いろんな時間を2人で過ごした。こんなに幸せなのはほんと、すごく久しぶりだな。そう思う度、僕は放心してしまう。
『1週間前テルちゃんがいなくなっちゃったんだ。そしたら昨日、近所のおばちゃんがテルの首輪をくれたの。あのさ、猫ってね、』
はっ
とした。また、気を抜いてしまった。
黒猫は今、僕の膝の上にいる。
ふわふわの毛を撫でると、ゴロゴロと鳴いた。
猫がゴロゴロ泣くのは、幸せを感じているとき。過去にそう教えてもらったことがある。
最後の記憶は、確か夜だった。そのはずなのに目を開けると、日が沈むオレンジ色の空が窓から見えた。
小学生の笑い声が外から聞こえて目を覚ます。
僕は気づかないうちに寝ていたようだ。
部屋に静寂が流れていた。
僕の近くにあの仔がいないことに気付いたのは、何分もぼーっとした後だった。僕は飛び起きた。
嘘、どうしよう。僕はパニックになった。嫌だ、嫌だ。猫が家を出るのは、
『猫ってね、死を感じた時、飼い主から離れるんだ』
「にゃー」
甘い声が聞こえた。僕は顔をあげる。
目線の先に、大きな鼠を咥えたあの仔がいた。
鼠を床にぼとっと落とす。
僕は無意識のうちに涙を流していた。
満足げな顔でこちらをみたあと、僕の太ももまで歩いてきてほっぺをこすりつけてきた。
「よかった、よかった」
僕が泣いているのをみて、にゃーと鳴いた。心配してくれてるんだね。
「もう僕から離れないで、いっしょにいよう」
抱きしめたら、すごく暖かかった。誰かといれるってすごく幸せなことなんだと感じた。
1月21日。
卓上カレンダーの21に、ピンクのペンで丸が書いてあった。僕は、悔しかった。
悔しくて、赤のマッキーで21を塗りつぶした。
穴が開きそうなくらい、何回も何回も塗った。
自分が不甲斐ないことを思い知らされたようで、胸が締めつけられた。僕は、なんてことを。
息が荒くなっていること、自分でも気づくほどだった。
ガチャ
という音が聞こえて、我に返った。玄関の音だ。
玄関まで行っても誰もいない。
朝は鍵を締めているし、合鍵を持っている親からも連絡が来ていないから、人が勝手に入ったわけでもないだろう。
その音が、あの仔が家から出た音だったことに気がついたのは、それから何時間も経ったときだった。
気づくのが遅かった。僕は思いっきり走った。
だけど、遅かった。
僕が最期に見たあの仔は血まみれで、見るに耐え難いものだった。
『猫ってね、死を感じた時、飼い主から離れるんだ』
死ぬのがわかってて何故、家から出たりなんかしたんだろう。悔しかった。
また、まただ。また、同じ事を繰り返してしまった。
『私さ、猫飼ってるんだ』
彼女は大学で知り合った女の子だった。可愛くて人気者で、僕とは正反対だ。
過去に体が弱かった僕は、動物を飼ったことがなかった。彼女が猫を飼っている事を知って、何回も見に行った事を覚えている。
彼女が僕に猫の話をする度、猫みたいな女の子だな、と思っていた。
彼女は1月21日、交通事故で死んだ。それこそ見るに耐え難い悲惨な姿だった。
僕の目の前で死んだ彼女を忘れられない。
ほんと、猫みたい。出会いも、別れも。
彼女は病気を抱えていた事を僕に隠していた。
最期に彼女が言ったのは「ばいばい」だった。いつもは「またね」って言うのに。
最期だって分かってたのかな。僕は泣き崩れた。
あの仔が死んで、何も手につかなかった。
だけどいろんな事を思いだして気づいた。
あの仔は、またあいに来てくれた彼女だったのかもしれない。
彼女の甘い声を思いだしてまた泣いた。
