蝉の声がうっすらと聞こえ始めた。
田舎育ちだった俺は小さい頃イヤと言う程蝉の声を聞いた。都会では煩い程ではないが、それなりに鳴いていることに上京してきたばかりの俺は少しばかり驚いた。
しかしもう二十年近くこの場に居るとそれもだんだんと慣れていく。
一年で一番春が好きだと言った妻。その春が終わろうとしている。
夏の訪れを報せる、少し物悲しい何かを感じたその日の午後だった。
蝉の鳴き声の音に交じって時折、遠くで飛行機の音が聞こえてくる。そのどれかに妻が乗っているのではないか、とさえ思っていた。妻に早く会いたい、とがらにもなく思っていた。思えばその時何かしらの嫌な予感と言うものがあったのかもしれない。
俺は社長室で下から上がってきた書類にぼんやりと目を通していた。
「社長、早く決済印をお願い致します」とやや口うるさいがデキる秘書の原がぼんやりとしていた俺を急かす。
分かったよ、と言いながら書類に手を伸ばしかけたときだった。
マナーモードにしてあった俺のスマホが着信を鳴らした。
見知らぬ番号で少しばかり警戒したが、俺は結局取ることにした。
社長室には50インチ型の壁掛け液晶テレビが掛けてあり、そこから午後のワイドショーが流れていた。秘書の原は気遣ってかテレビリモコンを手にテレビを消そうとしていたが、俺はそれを手で制した。別に特別見たい番組でもないが、本格的なニュースが放映されていないこの時間帯それなりにワイドショーでも情報収集できるからだ。逆に言うと事件事故や犯罪関係、金融関係天気予報とそれだけしか流さないニュースよりも意外と世間の意見を聞けたりして収穫することは多いからそれはそれで重宝している。
「はい」
極力警戒心を表に出さないよう努めて電話に出ると
『柏原 匠美さんのお電話ですか?わたくしは中央警察署の者ですが』と無機質な言葉が返ってきた。
警察―――……?
ガキの頃、それこそ十代の頃は俺も世で言うヤンチャをしていたから度々サツの世話になったが、それでもさすがにこの歳になって法を犯すこともしていない。
俺が目を細めると
『実は今しがた、柏原さんの奥様と思われる女性が遺体で発見されまして』
は――――?
『ただいま速報が入りました。神奈川県の河川敷で女性の遺体が発見されました。
所持品等から遺体の身元はプロバレエダンサーの黒瀬 翆さん、本名柏原 翆さんと断定。尚、警察は自殺か事故、または事件か断定するため捜査を開始中―――』
点けっぱなしになっていたテレビのワイドショーからは若い女のアナウンサーが妙に神妙ぶった顔つきで原稿を読み上げていて、書類を手にしていた原が眼鏡の奥で目を開きながら、その手から書類がバサバサと床に落ちる。
耳から―――すべての言葉、音がすり抜けていった瞬間だった。



