本格的なバレエを見たのはこれが初めてだが、俺の心は興奮に満ちていた。昨夜会った翆も美しいと思ったが、舞台に上がるとその二十倍は魅力的に感じた。翆は舞台の上で生き生きとしていた。最初に見たときは大きな人形のように感じたが、そこには確かに”生”があった。
公演が終わり、俺は興奮の冷めない高揚した気持ちのまま近くのパブで一杯やっていた。どうせ翆は俺が来たことを知らない。あんなに大勢の客たちの中、しかも暗い会場の中、たった一人俺を見つけられるなんて無理だ。
電話が掛かってくることは100%の確立でないことが分かっていた。原に無理を言って会食を断ったことを少しばかり後悔したが、後悔しても意味がない。俺がそうしたいと強引に願い出たわけだから。原には謝っておこう。ビール二杯を飲み終えたとき、見知らぬ番号から電話が掛かってきた。
翆か―――
ほんの少しの期待と、諦めが混じっていたが
『もしもし?今日来てくれたのね、嬉しかったわ。今どこにいるの』との言葉に俺は目を開いた。俺はパブの所在地を教えると、翆はそれから20分で来た。
舞台メイクを落としたばかりで改めて化粧をしなおしてなかったのか、その顔は化粧が乗っていなかった。最初に目についたあの赤い唇でさえ、今はほんのり桜色をしている。舞台で見た派手な化粧も妙に板についているようで美しく感じたが、素の翆はさらにきれいだった。
「慌ててきたの、ごめんなさい。みっともない恰好で」翆は頬をほんの少し赤らめ、前髪で顔を隠そうとする。俺はそんな彼女の手をそっと掴み、
「隠さないで、きれいだから」と言っていた。
それからパブで少しばかり二人で飲んで、当然のようにホテルに行き一夜を共にした。今覚えば翆もそのつもりだったに違いない。何だか酷く安っぽい流れだったがその夜はとてもロマンチックに過ごせた気がする。
そこから俺たちの付き合いは始まった。翆はNYでの白鳥の湖を終えると、今後は主役級の役をもらえないと言っていたが、それでも舞台には上がるようで国内外を行ったり来たりしていた。日本に戻った俺も相変わらずの忙しさに揉まれ、あ、そうそう、例の一度キャンセルしたPharaoh company、ジェームズ氏との会食は無事再会され、契約もすんなりとまとまった。
翆に会えるのは月に一度か二度程度だった。特別何かをするわけでもない。食事をしてホテルへ行くのが定番だったが、それでは今までの女となんら変わらない。翆とはもっと色んな場所、俺も翆も知らない場所が存在するのなら、そこへ二人で出かけてみたいとさえ思っていた。そこがたとえ地の果てでも。
そんなときだった。
「匠美、あなたとの子供が欲しいの」
情事の後ベッドで俺の腕枕の下、俺の胸元に顔を埋めていた翆が言い出し、俺は目を開いた。



