「中川優花さんだよね?よろしく!」

 席替えで今さっき隣の席になった伊波くんが私に向かって声をあげる。 

「あ、うん。よろしく」

 それに驚いた私は、その様子に怖気付きながら、小さく返事をした。

 それに対してまた伊波くんは冷たいなーなんて言っていたけれど、私はにこっとわらって心の内を誤魔化しておいた。

 別にいつもと何も変わらない。ただ無難に、静かに毎日をやり過ごす。今の私に与えられた使命はそれだけだ。

 もう、誰にも失望なんてされたくないから――

 一日の授業が全て終わり、帰りの挨拶を済ませて、私は校舎を出た。

 部活には入っていないから、ほかの部の子達の練習を横目に駐輪場へと向かう。放課後の騒々しさを後ろに背負いながら、私は鍵を自転車に突き刺して右に回した。

 ――カシャン

 鍵の解ける音が二重になって耳に聞こえてきた気がして、ふと顔を上げると目の前にくすっと笑った顔の伊波くんがいた。

「全然気づかねえの」

 私はぎょっとした。伊波くんは誰にでも喋りかけるタイプの人だから、気まぐれで目の前にいる私に話しかけたのだろう。でも、私はあまり話すのが得意ではないから、正直なところこうして伊波くんに話しかけられるのはなんだかとても苦しかった。

私がなんて答えようか考えていると、それを察したのか

「じゃあ俺今からカラオケ行くから帰るわ」

 と言っていきなり自転車を漕いで学校を出ていった。

それに安堵しながら、私もゆっくりと家までの道をたどっていく。

見上げた先の空には、大きな羽のような形の雲が辺り一面を覆っていた。



「ただいま」

「おかえり。もう晩御飯できてるから」

「うん」

 母と淡白な会話を交わして、何とか夕飯の席に着く。

「いただきます」

 重ね合わせた手のひらを引き剥がし、勢いよく箸と茶碗を掴み取る。

「優花」

 白米ををかきこんでいると、近くに座っていた父に喋りかけられた。

「優花はほんとにもうやらなくていいの?高校からでも部活でやり直したらいいんじゃない」

 そう言って見せられたのは、プールが一面に描かれた一枚のチラシ。

 3年前のこの時期、私は続けてきた水泳を辞めた。

 両親はまだ続けた方がいいと言ってくれていたけれど、私はあの子の期待に応えられなくて、向けられる失望の目に、耐えられなかった。

 ――「俺、優花の泳ぎ好きなんだよね」

3年前のあの時、同じスイミングスクールに通っていたナツが喋りかけてきた。ナツという呼び方は、出会ってすぐに私がつけたあだ名。

「速いのもそうなんだけど、こう、水の中の優花ってなんかめっちゃ強くて、うおおおおっ!て見てる俺まで燃え上がってくんの」

「ふっ。なにそれ、いきなり褒めてそれかよ!褒めるならちゃんと褒めて!」

 あまりの物言いに、思わず吹き出してしまった。

「いや、めっちゃ褒めてる!本気で褒めてるから!」

 必死に弁明するナツがまた面白くて、辺りには私の笑い声が響き渡った。 

 そうして少し話が途切れたところで、ナツはすうっと息を吸って、

「だから、俺応援してる。全国行くの期待してるから」

 といつになく落ち着いた面持ちで私を応援してくれた。その言葉に、私はなんだか心が締まるような気がした。

「ありがとう。頑張るね。ナツは緊張で震えて失格くらいが関の山かな。あ、ごめんその前にナツ市大会で終わりか」

「失格が関の山ってなんだよ!俺だって地区大会はいける実力あるから!」

 今はなんだか思いっきり笑っていたくて、ついナツをからかってしまう。

「うそうそ。ナツも頑張ってよ?」

 少しおどけたようすでナツを励ます。

「おう!一緒に頑張ろうな!」

 そう言ってナツが拳をこちらに差し出してきたので、それにグーを作って重ね合わせる。ナツの手は私の手よりも随分と大きかった。

しかし、最後のチャンスである地方大会で、標準タイムに0.2秒届かず、私は全国大会への出場権を逃した。

 控え室でばかみたいに泣き喚く私を彼はじっと見ていた。それからゆっくりと私に近寄ってきて、"もう優花は頑張ったから大丈夫だよ"と言ってくれた。

 きっと彼は優しさで私に声をかけてくれたのだと思う。けれど、その優しさが余計に涙腺を刺激して、何も言い出せなかったのを覚えている。

 それから少しして、私は水泳をやめてしまった。大会後もしばらくの間は練習で彼と会う機会もあったけれど、話しかけることも話しかけられることもなかった。きっと、私の結果と態度に呆れたのだと思う。

 結局、あの日せっかく応援に来てくれていた彼に、何も言えずに関係は途絶えてしまった。

 ――「優花?」
 当時のことを思い出していたら、父に怪訝そうに顔を覗き込まれた。掌に不快感を覚え、見ると酷く汗で滲んでいる。

「もうほんとに、やらなくていいから…」