「――――…………前世……?」

 すでに理解不能だ、という表情をみせ、リチャードソンが言葉を失ってしまった。

 それもそうだろう。
 大切な、大切な愛娘が、突然、突拍子もないことを口に出したのだから。


『私は日本で生まれました。私の名前は――』
【I was born in Japan. My name is ――】
「“Ich bin in Japan geboren. Mein Name ist ――”」
「〈Je suis né au Japon. Je m'appelle ――〉」


 リチャードソンの目が真ん丸だ。反応できないまま驚愕を(あら)わに、激しく瞠目しているのだ。

「……えっ……?! 今の言葉は、一体……?!」

「以前の世界にいた時に使っていた言語です。もちろん、ノーウッド王国のどの場所でも使用されていませんし、知られていない言語です。この世界では、存在しない言語です」
「セシル……一体、なにを…………」

 あまりに心配げに顔を歪めたリチャードソンがセシルの手を離し、セシルの両肩をそっと掴んで来た。

「セシル……、一体、どうしたんだい……?」
「お父さま、私の頭には、この世界になかった、以前の……記憶が戻って来たのです」

「以前の……記憶……?!」
「そうです。理由は分かりません。ですが、この世界で生まれる前の――記憶が、蘇ったのです」
「そんな……ことが……!?」

 有り得ない、と否定したいのだろう。

 だが、その一言を口に出す前に、自分を見つめている可愛い娘の――そのあまりに強い瞳を見て、リチャードソンがそこで絶句していた。

 亡くなった妻の面影を強く映す一人娘は、その愛らしい容姿も外見も、そして、人懐っこい性格も、全てが全て、リチャードソンの宝だった。

 その外見が全く変わっていないのに、今、自分の目の前にいる娘は……自分を見つめ返してくるその瞳が、強い意志を表しているかのようで、ただの子供の瞳の強さでもなく、リチャードソンは絶句してしまっていたのだった。

「お父さま、突然、こんな突拍子もない話を聞かされて、驚いていることだと思います……。私も……未だに信じられなくて、混乱していますしね……。でも、『私』 は、お父さまの娘のままです」

 父であるリチャードソンと過ごした記憶を、しっかりと覚えている。
 弟であるシリルと過ごした記憶も、しっかりと覚えている。

「お母さまが亡くなって、とても悲しかった記憶も、覚えています……」
「セシル……」

 その言葉を聞いて、リチャードソンがしっかりと『セシル』 を抱きしめていた。

「愛されて、育って来た記憶も、きちんと覚えています。大好きな家族と一緒にいる時間も、全部、覚えています……。覚えていると同時に、この頭の中には……私の生まれる前の、記憶があるんです……」

「…………前世、の記憶……?」
「そう、みたい、です……」

 泣きたくはないのに、抱きしめられて、人のぬくもりを感じてしまうと、今まで抑え込んで来た感情のタガが、外れてしまいそうになる。

 本来なら、こういった――あまりに狂った状況下、混乱を極め感情が乱れてしまっている時は、我慢せず、大声を出して泣いてしまえばいいのだ。

 感情を押し殺す必要はないのだ。

 ただ……、そう分かってはいても、一度、押さえつけている感情を開いてしまったら、『セシル』 は、絶望なのか、ショックなのか、悲しみなのか、そんなごちゃ混ぜの感情に呑み込まれてしまうだろうから、今は……、それをしたくなかったのだ。

 もう少し、気持ちの整理がつき、落ち着いて、その時に――泣こうと考えていたのに、優しい父親に抱き締められて、その大きな瞳から涙が止まらなくなってしまった。

「あぁ、セシル……」

 抱きしめてくれる父親に甘え、『セシル』 はちょっとだけ腕を伸ばし、父親を抱きしめ返した。
 瞳から、涙が溢れ出て来る。

 感情が乱れている今、大泣きしてしまったら、疑う余地もなく、『セシル』 は泣き疲れて、そのまま眠ってしまうことだろう。
 ここしばらくの不眠も重なって、きっと、眠りこけてしまうことだろう。

 その状況に甘んじてもいいのだ。たった一日くらい、泣き疲れてもいいはずだった。

 ただ、もう、『セシル』 は覚悟を決めてしまったのだ。
 絶対に生き抜いて、生き延びてやる、と。

 あのクソガキを完膚なきまでに叩き潰してから、まず、自分の「自由」 を取り戻してから、感情にまかせて泣き崩れればいい。

「お父さま……。あまりに狂った話を聞いていると思われるかもしれませんが、今の私には、やらなければならないことがあります。あの、(クソガキ) 侯爵家との婚約を、絶対に解消します」

 破棄させます――などと言ったら、それこそ、更に、父を混乱させることになるだろう。
 前世の記憶があるだけではなく、先読みまでできるのか――と、疑われてしまう怖れだってある。

 その事実だけは……、きっと、今はまだ、『セシル』 の胸の奥にだけしまっておくべき事実なのだろう。

 そっと、リチャードソンの手がセシルの頬を撫でて行く。

「婚約……解消、など……。無理が、あるよ……。父である私が、ちゃんと婚約話を否定していれば、こんなことになど、ならなかったのに……」