今は、足元を見ないようにして、自分の体も見ないようにして。

 それで、見慣れない室内を、ぐるぐるりと、見渡してみる。
 洒落た西洋風の家具。天蓋付きのベッド。そして、見渡せるほどの、広い空間の室内。

 もう、絶対に、自分のアパートの部屋ではなかった。

 あまりに混乱し過ぎて、このまま泣き出すべきなのか、大声を張り上げて叫び出すべきなのか、そのどちらとも言えない……。

 そして、両手で顔を覆っていると、ふと、頭の隅に残っている――全く知らない、誰かの記憶も思い出していた。


(え……? なに、これ……)


 目覚めた本人には、全く記憶の無い人物像。

 なのに、頭の隅にある――誰かの記憶では、大切な、大切な……家族?

 お父さま……って呼んでる……。


(お父、さま……? えっ、マジ……?!)


 自分に向かって、どこまでも優しそうな微笑みを向けて、笑いかけている紳士だ。
 年上でも、でも、年配というほどの年齢には見えない。むしろ、かなり若い年齢の青年、とも言えそうな容姿だ。

 そして、その男性が泣いている映像が浮かんで来て、キラキラと輝く――銀髪の髪をした小さな子供も一緒に、足元に走り寄って来る。

 咄嗟に、自分の足元を見下ろしてしまっていた。
 でも、そこには、誰かがいるわけでもない。

「……シリル……」

 自分自身では全く聞き慣れない単語なのに、自然と、その口から名前が漏れていた。

 ああ……そうだ。

 シリル。
 ()の――弟、だ。

 私の知らない……()()()の、弟だ……。

「あぁ……」

 ポタポタ、ポタポタと、考えもせずに、その大きな瞳から、大粒の涙がこぼれだしていた。

 身体と脳に残っている記憶と、覚醒した意識の記憶が勝手に混同して、頭の中が激しく混乱している。

 この世界(どの世界なのかも分からない……)では、優しい父親と、可愛らしい弟がいる。
 二人共、大切で、大好きな――家族だ。

 そして、今まで、シャキシャキ、テキパキと――現代で働いていた自分がいる。
 コンピューター。モニター。携帯電話。自動車。飛行機。ゲーム。レストラン。そんな映像が、走馬灯(そうまとう)のように一気に頭に流れ込んでくる。

 死を間近にしていない場合、走馬灯(そうまとう)、とは呼ばないのだろうか?

 だったら、何と言うのだろう?

 そんな、変な質問が簡単に上がっていた。

 こんな変な質問が上がって来る自体、自分は、すでに最高潮に混乱している状態だった。

「ちょっと、待ってよ……。私って――なに……? 信じられないけど、どっかに飛ばされたわけ?!」

 小説や漫画じゃあるまいし。

 有り得ない状況だ!

 今、(ちまた)で流行っている()()()……?

 いやいや。そんなもの、あくまでも小説や漫画の世界の話だけであって、現実では有り得ない話だ。

 異世界転移?
 でも、ワープされたような経験もなければ、その場を目撃していない。

 異世界――転生?
 生まれ変わったのなら――以前の自分は死んでいることになる。

 いつ……自分自身が死んだのかさえも、全く記憶にない。
 どこで、亡くなったのかも、全く身に覚えがない。

 神様に出会ったのでもない。女神さまに召喚されたのでもない。

 眠りに落ちた記憶だってなかったのに、一体、なぜ、自分は、こんな見も知らない世界にいるのだろうか……?!

 激しい疑問にぶつかってしまった。

 それで、混乱が最高潮に達して、このままパニックで、狂ってしまいそうだ。

 目覚めてから数分。
 すでに、自分の理解の域を超えた状況を経験してしまい、脳ミソはパンク状態。思考も働かないほど、麻痺している……。

 麻痺している脳だと、混乱を極めて動揺している感情は、上がって来ないのだろうか?

 きゃあぁぁっと、大声で叫んだら、現実に戻れる? ――はずもない。()()は、実は、どの世界なのかも、判らない。

 支離滅裂である。

 人生初めてにして、ここまで動揺して支離滅裂で、パニックして超混乱を極めている意識も思考も働かないなんて、ものすごい経験だ……。
 自慢さえも、できやしない。

 どうやら、今の所、自分自身は、意識が完全に覚醒していないのか、夢を見たまま(超) 混乱しているだけなのか、本当に、現実として、どこか知らない世界に飛ばされたのか……、確認する手段はない。

 それなら、まずは、現状把握で、部屋の光景は、ある程度、理解できたので、この体の持ち主である()()の確認も必要となってくるだろう。

 精神的な疲労をきたし、疲れ切ってしまった自分だったが、のろのろと立ち上がり、目についた、向こうの大きな洒落た鏡台の方に向かってみた。

 椅子を引いて、椅子の上にのぼってみる。

 鏡の中の自分自身を見て、更なるショックを受けそうだ……が、避けて通れない道だ。

「誰……、この顔……」

 鏡の中に移っている姿は、子供だった。

 キラキラと輝く真っ直ぐに伸びた銀髪に、サファイアを思い起こさせるような深い藍の瞳。
 銀髪のまつ毛に、白い肌。薄くピンク色の唇。

「いやぁ……、もう、西洋人の顔してるじゃない、この子…………」

 それを(つぶや)く動作でさえ、疲弊を生む感じだった。

 確か、記憶に残っている残像からは、『セシル』と呼ばれていた。

 自分自身じゃなくて、目覚めた体の持ち主が、『セシル』だった。

 部屋に漏れて来る朝の陽ざしが明るくて、『セシル』という少女の癖のないサラサラとした銀髪が、鏡の向こうでもキラキラと反射していた。


(まあ……、綺麗な髪ねえぇ……)


 癖のないサラサラとした髪の毛など、本当に、小説や漫画で出てくるような髪質だ。

 日本人で真っ直ぐな髪の毛をしていようが、その実は、大抵、くせ毛が存在しているらしい(例えば、前髪、こめかみ、もみあげ、襟足などなど)。

 70%~80%の割合で、日本人はくせ毛持ちだ。
 だから、どんなにストレートに見えていようが、サラサラと癖のない髪の毛は、ほぼ存在しない。