突然、大牙くんの口から思いがけない名前が出てきて、頭にガツンと氷の柱が降ってきたみたいな気持ちになった。
 一気に頭が冷える。

「……あいつに色々されたんだって思ったら居ても立ってもいられなくなって……」

 大牙くんがこの短時間でどうして私と牛口先生との関係について知ってしまったのか皆目見当もつかないけれど……
 なんだかズンと胸に重しが乗ったみたいで、なんだか悲しくなってきた。
 ちょうど牛口先生からラブホテルに行こうって言われて嫌だって断った時のことが頭に浮かんできちゃって……
 色々されてはないんだけど……
 もしかして大牙くんにまで簡単に身体を許しちゃうような軽い女だって思われてるんだったら、なんだか、すごく嫌だった。
 大牙くんの腕をすり抜けると、その場で蹲ってしまった。こんなにしゃがみ込むのは、小学生の時のカクレンボで鬼に見つからないようにって真ん丸で穴の開いた遊具の入り口に一生懸命隠れて以来かも。
 なんだか悔しいのか悲しいのか分からないけれど涙が溢れて止まらなくなってしまう。

「まゆりちゃん……!?」

 頭の上で大牙くんの慌てふためいた声が聴こえる。
 動揺してるなって気づいてしまった。

「ごめんね、急すぎたよね! 再会してばっかりだったのに、ごめんね! まゆりちゃんの気持ちを全然考えないで……」

 なんだか本当に謝ってきてるのが分かる必死な声。
 だけど、なんだか顔を上げられなくなって、そのまま床を一点凝視する。
 床の板目と等間隔に並ぶ黒点がじわじわ歪んで見えた。
 その時――
 さっと目の前に何かが差し出される。
 真っ赤で真ん丸なラッピングに英語で名前が書いてある。

「これ、まゆりちゃんが好きな飴あげるから!」

 大牙君も私のそばにしゃがみ込んでいて、高校生の頃にいつもポケットから差し出してきていた棒付きの飴が目の前に差し出してきていた。
 ……大牙くん、私のこと、お菓子で釣れる甘い女だって思ってるのかな?
 だけど、あまりにも一生懸命こちらの顔色を窺ってくるものだから……もしかしたら他の男の人に同じ扱いをされていたら、安い女だって思われてるのかなって嫌な気持ちになったかもしれないけれど――
 思わずクスリと笑いがこみあげてきた。

「大牙くん、全然変わってないね」

 そっと差し出された飴玉を受け取ると、大牙くんが面食らったみたいな表情を浮かべて、少しだけ顔を真っ赤にしていたんだ。
 私のほうも気持ちが十年前に戻ってしまったみたいな素直な笑顔が零れた。

「ごめんね、牛口先生との一件を思い出しちゃって……」

 何気なく言い放った言葉だったんだけど、大牙くんの頬がピクリと動く。
 かと思えば――

「やっぱりあの男に何されたの……?」

「え?」

「……あの牛口ってやつにだよ」

 ザワリ。
 なんだか今まで見たことがないぐらい。
 あんなにいつも無邪気な感じなのに、正直何か鬼か般若でも見てるのかっていうぐらい、ものすごい低い声に圧倒されてしまう。
 ざわざわ総毛だって落ち着かない。
 ものすごく殺気立っていて怖くて仕方がなかった。
 そういわれると高校時代、おかしな絡み方をしてきた男の人の腕をひとひねりして一掃したことがあったなって思い出した。
 あの時の大牙くんもこんな感じで殺気立ってて……なんだか、らしくないねって言ったら、困ったように微笑んでいたんだった。

「大牙くん……牛口先生には無理やりホテルに連れ込もうとはされたけど……ごめんなさいって断ったから……何もなくて……」

 怖かったけれど、なんとか声を振り絞って伝えたら、私の知ってる優しくて無邪気な印象の大牙くんの顔に戻る。そうして、すぐに前髪を自分の手でくしゃりとした後に、怒られた犬みたいに顔を歪めた。

「ああ、まゆりちゃん、そうなんだ。安心したけど……ごめんね……さっきからダメだな、俺、色々突っ走って……もう許してはもらえないかもしれないけれど……」

 大牙くんが、おずおずと口を開いてくる。

「まゆりちゃん、真面目だからさ、俺とはちょっと違うタイプのさ、ああいう生真面目そうに見える男の方が好きだったんだなって、俺としてはちょっと悲しかったりして……焦っちゃってさ……十年前に別れを切り出したのは俺の方なのに身勝手すぎるよね、ごめんね……」

 そうして、上目遣いでこちらを見てきた。
 現金すぎるのか心臓がドキドキして落ち着かない。
 ドギマギして頬が赤らむのを感じながら返す。

「ええっと、突然あんなことしないって約束してくれるなら……」

「本当!? もうしないよ、約束する!」

 大人になったはずなのに、まだまだ子どもっぽい仕草をする大牙くん。
 我ながら甘い気もするけれど――
 さりげなく私の両手をぎゅっと握りしめてきた大牙くんが、私の瞳を覗き込んでくる。まるでキスでもしそうな距離に動揺が隠せない。