うっかり失念していた。

戸部医師と真子には話してあるけれど、それ以外の人には神坂医師との関係は誰にも話していない。
というよりも、彼との関係を話す上で、元彼のことを引き合いに話さなければならないということが重荷だからだ。

鋭い刃物で何度も切り刻まれた状態の傷を、これ以上抉りたくなくて。



「お母さん、何だって?」
「宅急便の荷物が、宛先不明で送り返されたからクレームの電話です」
「最近食べて無いから、そろそろだと思ってたんだよなぁ~」
「届いたらお裾分けしますよ」
「おっ、サンキュー♪」

私の実家は代々続く老舗のうむどん屋だ。
(うむどんとは、実家のある地域で呼ぶうどんのこと)

榛名山麓の豊富な湧き水と地粉(小麦粉)と塩といったシンプルな素材から生まれる強力なコシと弾力、そして瑞々しい透明感が絶品の水沢うどん。
香川の讃岐うどん、秋田の稲庭うどんと並んで、日本三大うどんの一つとして有名なうどんだ。

その老舗うどん店が軒を連ねる街道で、一、ニを誇る人気店が夕映の実家である『くろせ』だ。

毎日石臼で挽いた地粉で打った麺、地元野菜のみで作られた天ぷら、きのこ汁など付け合わせも豊富。
水沢観音に参拝する人々だけでなく、伊香保温泉、水上温泉などに訪れた観光客が少し足をのばしてでも食べたいと思うほど有名な老舗うむどん屋だ。


住んでいるあのマンションが彼の所有物だと分かり、暗証番号の変更の仕方も拒否され。
挙句の果てには、彼から好意を寄せるような態度を示されたら、さすがに恋愛音痴の夕映でもピンとくる。

だから、何事もなかったように住み続けることができなくて、職場で寝泊まりしていたのだ。