時代の歌姫を介抱して部屋の中に入るなんて、ある意味貴重な経験だ。
「ちゃんと鍵かけなよ」
そう言って、すぐに部屋を出ようとしたその時。
「…やだ…帰らないで…」
琴吹さんがそう言って俺の腕をつかんだ。
潤んだ瞳。甘い香水の匂い。甘えた声。
人気歌姫の無防備で甘えた姿に、誘われるままに落ちた男はきっとたくさんいるだろう。
「私が夏音さんを忘れさせてあげる」
耳元で囁かれた言葉が甘く響く。
夏音がいなくなってから、世界はいつも闇に包まれて。
足元の道も行く先も見えない。
そんな毎日を過ごしてきた。
いっそこのまま闇に堕ちてしまいたい―
いつかこの暗闇を照らす光は射すのだろうか。
光となって見えない道を照らしてくれる人は現れるのだろうか。
揺らぐ視界の中、ふと心に浮かんだのは…。
目の前にいる歌姫でもなく、亡くなった恋人でもなかった。